「天保の改革」を断行した野心家の謎①[異例の減封願い] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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江戸時代の三大改革のうち、最も評価が低い天保(てんぽう)の改革。


その改革を断行した水野忠邦(ただくに)の人物像についても賛否両論にわかれています。


何しろこの人、出世のためなら減封さえ、厭わなかった人物なのです。


忠邦は、肥前唐津藩から遠州浜松藩への国替えを願い出て認められます。


唐津藩と浜松藩の石高はともに六万石。


表面的な数字だけみると、知行高に変わりはありませんが、以上は幕府公認の検地によって算出された(おもて)(だか)の話です。


江戸時代、新田開発や特産品の専売などで、実際には表高以上の収入がありました。それを内高(うちだか)といいます。


表高は同じでも、唐津藩の内高は二〇万石といわれ、浜松藩の表高と内高にはたいした開きがありません。


つまり、二〇万石から六万石へ減封を願い出るのと同じです。


ふつう、このような国替えを願い出る藩主はいませんが、唐津藩は、当時日本近海に出没していた異国船警護にあたる役目があり、唐津藩主は幕府の要職につけないことになっていました。


一方の浜松藩は、戦国時代、幕府を開いた徳川家康が浜松城を拠点に天下へ名乗りを上げ、江戸時代にも、浜松藩主の多くが幕閣入りを果たしています。


 つまり、浜松藩主は出世ポストだったのです。


 藩主(忠邦)は幕閣入りという出世のためだけに、藩に大幅減収を強要したのです。


(つづく)





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