討幕計画そのものは、大久保長安一派を追い落とすために、反対派によって仕組まれた疑いがあります。
しかし、秀忠はそれを機に、幕府にとって危険と思われる大名諸侯の粛清に乗り出すのです。
異母弟の忠輝の領地没収が元和二年のこと。
当時、将軍家が仙台に出兵する――つまり、「仙台出馬の由にて御陣触れ御座候」という噂がたっていたころです。
その噂と忠輝の領地没収が無関係であるはずはありません。
秀忠にとっては、伊達六二万石と戦国の生き残りである政宗自身を葬り去る口実を得たことになります。
結局、「仙台出馬」は実行されなかったものの、そのように秀忠の意志や幕府の思惑を敏感に感じ取り、政宗が将軍家の「仙台出馬」を想定して、秘密裏にその迎撃作戦を練っていたと思われます。
『東奥老子夜話』には迎撃作戦として、三つのプランが記されています。
第一案としてはまず、仙台城下を流れる広瀬川の下流を堰き止め、郊外へ向けて氾濫させるというプランでした……。
(つづく)
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