「清洲会議」と「天下統一」の謎②[信雄・信孝の器量] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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『黒田家譜』によりますと、官兵衛はまず、光秀を討ったあと、信長の後継候補である信雄・信孝の兄弟を盛り立てるべきだとしつつ、やがて世の中が彼ら二人の器量に疑問を感じたときこそ、秀吉が天下の覇権を握るチャンスだといっています。


しかし、信雄・信孝の兄弟は本当に信長の後継候補になっていたのでしょうか。


まずは、「会議で信長の後継者が決定された」といわれる清洲会議について掘り下げていこうと思います。



 清洲会議というのは、山崎の合戦で秀吉が光秀を討ったあと、柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の四名の織田家重臣が信長ゆかりの清洲城(清須市)に集まり、織田家の家督などを決めた会議のことだとされています。


通説では六月二十七日におこなわれたことになっていますが、確実にその日に会議が開かれたことを示す史料はありません。


もちろん、いくつかの史料によって、かろうじてそのころ、前述の四人を中心とした宿老会議が開かれたことはわかります。


しかし、本当にその目的が、織田家の家督を決定することにあったのでしょうか。


重要な会議であるにもかかわらず、なぜ信長の兄弟や織田一族の者の名がでてこないのでしょうか。


これを、当時の織田家内部の革新的な組織運営を象徴するものと解釈することもできますが、すでに家督はほぼ決まっていたがために、親族らは新体制の運営方針を重臣に一任したともいえます。


(とよ)(かがみ)』という史料によると、秀吉が清洲城を訪ねた理由は次のようなものでした。

(つづく)





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