戦乱の世は、じつにユニークな人材を輩出するものです。
のちの関白近衛信尹(信輔ともいう)は、公家の名門に生まれながら、豊臣秀吉が朝鮮へ出兵するや、
「家を離れて太閤(秀吉)へ一円武辺の奉公に出られ」(『多聞院日記』)
つまり、名門の近衛家を捨て、秀吉へ忠を尽くすべく朝鮮へ渡って戦うといいだしたのです。
そのため、わざわざ名字を「岡屋」にあらためます。
近衛家は岡屋荘(宇治市)を家領にしています。
武士が所領を名字とするケースが多いことから、それにならったのです。
信尹には世継がおらず、朝鮮でもし彼が討死でもしたら、平安時代から続く名門の近衛家は絶える可能性もありました。
そこで『多聞院日記』の筆者(奈良興福寺の僧)は、
「物狂のことなり」
といって、呆れ果てていますが、当時の公家社会からしたら、常識はずれな行動でした。
時の後陽成天皇も、
「(信尹)高麗下向のよし(中略)驚き入られ、筆をそめまいらせ候」
と、高麗(朝鮮)渡航の話を聞いて驚いたものだからつい筆をとったといい、信尹に翻意するよう促しています。
もちろん、秀吉も信尹のこの暴挙には反対でした。
(つづく)
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