武士にかぶれた「摂関家の異端児」の謎①[天皇もあきれる物狂の人] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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戦乱の世は、じつにユニークな人材を輩出するものです。


のちの関白近衛信尹(のぶただ)(のぶ)(すけ)ともいう)は、公家の名門に生まれながら、豊臣秀吉が朝鮮へ出兵するや、


「家を離れて太閤(秀吉)へ一円(いちえん)武辺(ぶへん)の奉公に出られ」(『多聞院日記』)


つまり、名門の近衛家を捨て、秀吉へ忠を尽くすべく朝鮮へ渡って戦うといいだしたのです。


そのため、わざわざ名字を「岡屋(おかのや)」にあらためます。


近衛家は岡屋荘(宇治市)を家領にしています。


武士が所領を名字とするケースが多いことから、それにならったのです。


信尹には世継がおらず、朝鮮でもし彼が討死でもしたら、平安時代から続く名門の近衛家は絶える可能性もありました。


そこで『多聞院日記』の筆者(奈良興福寺の僧)は、


物狂(ものぐるい)のことなり」


といって、呆れ果てていますが、当時の公家社会からしたら、常識はずれな行動でした。



時の()(よう)(ぜい)天皇も、


「(信尹)高麗下向のよし(中略)驚き入られ、筆をそめまいらせ候」


と、高麗(朝鮮)渡航の話を聞いて驚いたものだからつい筆をとったといい、信尹に翻意するよう促しています。


もちろん、秀吉も信尹のこの暴挙には反対でした。

(つづく)



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