討幕計画だったのか?「慶長遣欧使節団」の謎③[宣教師書簡にもとづく仮説] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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使節団代表の常長は罪人の子でした。


政宗の自筆書状によりますと、常長の実父・支倉飛騨は何らかの罪(詐欺容疑だったと考えられます)に問われ、藩の牢屋で拘束されていました。


そして、ようやく容疑が固まったので切腹申しつけたというのです。


その子・六右衛門(常長)も追放処分となり、知行地は没収されたと書かれています。


この政宗書状の日付は八月十二日。


「年」の記載はありませんが、慶長十五年(1610)ごろのものとされています。


三年後には使節団が月ノ浦から出航しているのです。


つまり政宗は、いったん追放した家臣をわざわざ呼び戻し、遣欧使節の代表という重職につけたことになります。


なぜなのでしょうか。


いくつか理由は考えられます。


まず、父の罪に連座したとはいえ、常長が優秀な人材であったという仮説です。


しかし、宣教師アンジェリスの書簡にはそれとはまったく別の政宗の意図が書かれています。


政宗は、常長を航海の労苦に耐えさせることによって罪を償わせようと考えていたというのです。


そして政宗は、常長が航海の途中で死ぬと考えていたとも書かれています。


ここから、ある仮説が浮かび上がります。

(つづく)




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