天海は故郷の会津へ戻ったのち、慶長四年(1599)、武蔵国川越の喜多院に入寺します。
四年後、下野国長沼宗光寺(真岡市)へ転じますが、その頃、家康と出会います。
家康が施薬院全宗(豊臣秀吉の側近だった医師)に、
「関東の内、名を得たる僧を撰らひ(び)つかはす(遣わす)へ(べ)し」
と命じ、「智行兼備の人」という評判を得た全宗が、天海を家康に推挙したといいます。
以上、依拠した『東叡開山慈眼大師縁起』は上下二巻の力作ですが、天海の前半生についての記述は以上ですべてです。
その生年でさえ定かではありません。
最も古い説が永正七年(1510)生まれ説です。
これまで一般的に流布された説ですが、これだと家康と出会った年、すでに天海は一〇〇歳。
寛永二〇年(1643)に没したとき、一三四歳という信じ難い年齢となります。
このため、いまでは天文五年(1536)生まれ説が有力になっています。
というのも、家康の七回忌弔問のため、朝廷から派遣された公家の小槻孝亮が日記(『日次記』)に、導師を務めた天海の年齢を「今年九十七歳」としているからです。
計算すると、享年は一〇八歳。
当時としては異例ともいえる高齢になりますが、まだ許容できる年齢ですし、何より公家の日記という信用できる史料の裏付けがあります。
それにしても、これだけの“ビッグネーム”にしてはじつに謎多き人物といえます。
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