天台僧の南光坊大僧正天海(慈眼大師)はご存知のとおり、徳川家康から三代家光まで、江戸幕府の歴代将軍に仕え、“政僧”の名をほしいままにした戦国時代の巨魁です。
武将ではありませんが、かの勝海舟をして、もし天海が頭を丸めなかったら
「家康公に向つて弓を彎いたであらう」(『氷川清話』)
と感嘆せしめているほどです。
一説によりますと、大坂の豊臣秀頼が京の天皇を擁して幕府に敵対した場合を想定し、家康に次のようなプランを建白したといいます。
まず、江戸・忍岡(いまの上野公園一帯)に輪王寺を創建し、朝廷から宮様を法親王として迎えるというのです。そして、万が一、大坂方と手切れとなっても、法親王を天皇に立てれば逆賊の汚名は免れることができる――と。
つまり、南北朝時代のように“東朝”“西朝”に、天皇家を二分する計画だったというのです。
実際に、このプランにもとづいて輪王寺宮が置かれ、幕末維新の頃に、幕府側の”玉”として重要な意味を持ってきます。
さらに、織田信長に焼き討ちにされた比叡山延暦寺の再建を家康に一任されるや、そののち、上野に“東の比叡山”という意味で東叡山寛永寺を開山します。
病床の家康から、遺体を久能山(静岡市)へ埋葬するようにという遺言も託されています。
しかし、このとき、家康の「神号」をめぐり、問題が起きます。
「大明神」で決まりかけていた神号が、天海の意見で一転、「大権現」へ変更となるのです。
すでに大明神は「豊国大明神」として豊臣秀吉が使用していたからでした。
つまり、われわれが知る「東照大権現(家康)」の名は、天海のツルの一声で決まったといってもいいでしょう。
これだけ初期の幕政に大きな影響を与えた天海ですが、その生涯は謎に包まれています。
(つづく)
※サブブログで「織田信長の死」の謎をめぐる歴史小説(「花弁」)を連載しています(毎週木曜日)。そちらもぜひご覧ください。