安政の大獄の謎[最終回] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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将軍の頭越しの密勅降下は、将軍権威の失墜を招きかねず、さらに、密勅を“錦の御旗”に水戸藩が幕府の現執行部(井伊直弼政権)へクーデターを仕掛ける可能性がありました。


執行部、とりわけ井伊直弼にとっては危険この上ない存在でした。


この事実を知った直弼は、すぐさま反撃に転じます。


この密勅降下に関係した公家や水戸藩士らをごっそり検挙したのです。


これが安政の大獄の本質です。つまり、検挙の対象はあくまで密勅に関係した人物だけであったはずです。


ところが、直弼は調子に乗り過ぎてしまいました。


これを機に、政権にとって危険な人物を一斉に弾圧しようとしたのです。


吉田松陰や梅田雲浜らも、危険な尊攘思想を抱くという理由で処罰しようとしたのです。


しかし、明確な理由ないままの処罰は禍根を残します。


松平春嶽は維新後、この大弾圧について、


「この一挙よりして、天下の人心動きて士気振起せしめたり」


と述懐しています。


実際に、戊牛の密勅事件に絡んで多くの処罰者を出した水戸藩内過激派(彼らを「激派」という)の怒りが、翌々年の桜田門外の変(直弼暗殺事件)へと繋がったのみならず、文久年間には、前述した松陰の弟子らの勤皇志士が横行するのです。


極限するなら、この大弾圧によって幕府みずから幕末の動乱を招いたといえます。