光秀の「11日間」⑦ | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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細川家の隆盛を取り戻すには、管領職は何よりのポストです。


しかし、藤孝は嫡男忠興を管領のポストに就けるという光秀の申し出を断ったと考えています。


その理由は、本能寺の変のあとの明智勢の動きをみて新政権に疑問を抱いたからでしょう。


前述したように光秀は、山岡兄弟でさえ手なづけず、瀬田の唐橋を焼かれて安土城になかなか入れませんでした。


それともう一つ、秀吉が先手を取り、光秀陣営の諸将へ書状を送って切り崩しを図ったことも大きな理由だったのだと思います。



 あくまで「写」ですが、秀吉の家臣が六月八日付で細川家の重臣・松井康之に「去六日ニ至姫路」(実際に秀吉が姫路に着いたのは七日の夜)と伝える書状が残っています。


藤孝はこの報に接し、猛烈なスピードで京へ戻ろうとする秀吉の行軍の速さに、驚いたことでしょう。


それまで光秀の謀叛に大きく関与した藤孝はここで方針転換、すなわち、光秀を切り捨てることを考えたのだと思います。


そこで有名な”元結事件”が起こります。

(つづく)