伊勢宗瑞は“足利義澄擁立派グループ”に属していました。
やがて宗瑞は、義澄の父・政知の死後、伊豆に割拠して、義澄擁立グループと対立していた足利茶々丸(義澄の庶兄)を討ち、伊豆を平定します。
通説はこれをもって「下剋上」のはじまりとしていますが、実際にはそうではありませんでした。
この動きこそが、「細川政元―伊勢貞宗父子」という幕府の主流派ラインに命じられた密命だったのです。
宗瑞の活躍もあって、明応三年(一四九四)、「政元―貞宗父子」ラインは反対派を抑えつけ、義澄を十一代将軍の座にすえることに成功します。
そして、以降も、宗瑞は東国で義澄の与党作りに奔走します。
大森藤頼から小田原城を奪い取るのも、藤頼が反対勢力へ寝返ったからだと考えられます。
「元祖・下剋上」のヒーローの正体は、忠実な幕府および将軍の僕(しもべ)だったといえるでしょう。
さて、次に宗瑞の年齢にまつわる謎解きにチャレンジしたみたいと思います。
通説は、八十八歳の長寿を全うしたとしていますが、八十八歳がちょうど「米寿(べいじゅ)」の年齢にあたることから、宗瑞の事蹟を寿(ことほ)ぐため、デッチ上げられた可能性があります。
史実はどうだったのでしょうか。
(つづく)
※本日(6・14)、サブブログにて推理小説「ゴッド・メモリー」(「江戸切絵図の記憶」を改題して加筆修正)の連載をはじめます。ぜひご一読下さい。
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