源義朝が藤原信頼のクーデターに加担した理由は、義朝の関東下向時代に武蔵守だった信頼と誼みを通じていたからだと思います。
一方、微妙な立場にあったのが清盛です。
清盛は、信西と信頼のいずれとも縁戚関係をむすんでいました。
したがって、信頼のクーデターは、去就が定かでない清盛が熊野詣でに出た留守を狙ってのものでした。
清盛は帰洛後、いったん信頼に名簿(みょうぶ)[=臣従することの証し]を捧げて恭順の意を表するものの、そこで信頼に見切りをつけた天皇親政派の藤原惟方らと共に大逆転劇を演じます。
幽閉された天皇を内裏から脱出させ、邸のある六波羅へ迎え入れるのです。
有名な「六波羅行幸」です。
『愚管抄』によりますと、十二月二十五日の深夜、二条大宮あたりで火事を起こし、源氏の兵らを牽制した隙に、藤原尹明(惟方の義兄弟)が天皇を女房車に乗せて脱出させたといいます。
『平治物語』の展開は、もっとドラマティックです。
美男で鳴る当年十七歳の天皇はこのとき、
「かさ(重)ねたる御衣に御かつらめ(召)されけり」
つまり女房の装束に鬘(かつら)までつけて女装していたため、
「東人(あずまびと)[=源氏の兵]」がどうして見抜けようかと結んでいます。
こうして天皇を奪われ、後白河院も自力で御所から脱出したために、信頼と源氏方は一夜にして「賊軍」となり、逆に清盛は「官軍」となりました。
清盛謀略説について語る前に、通説に従い、こののちの展開をみてみましょう。
(つづく)