秀家の母・おふくも、美貌の人として知られています。
戦国の梟雄と呼ばれる直家が、”子連れの未亡人”だった彼女を、わざわざ後妻として迎えるのですから、やはり、その美貌は相当なものだったのだと思います。
ところが、直家との間にもうけた嫡男の秀家が9歳のとき、夫・直家は死去します。
そこで彼女は、そのころ、織田方の中国方面軍の軍団長だった羽柴秀吉に色目を使い、息子の未来を託したという俗説があります。
しかし、『野史』によると、直家の宿老(宇喜多家重臣)らが幼い秀家を扶(たす)け、備中の境にまで秀吉を出迎えています。このことから、直家死後、宿老らによる合議制が続き、彼らの選択肢により、秀吉へ宇喜多家の将来を託したことがわかります。
その重臣らの期待にこたえるべく、秀吉も秀家を可愛がります。
『浅野家文書』に、
「宇喜多殿事は、幼少より御取立なられ候」
とあり、秀吉は秀家を猶子に迎え、可愛がります。
母おふくの美貌と無類の女好きである秀吉の組み合わせ、そして秀吉が秀家を可愛がった事実が重なりあい、俗説が生まれたのだと思います。
それでは最後に、”戦国のプリンス”と呼ばれる秀家の事蹟をみていきましょう。
(つづく)