跡部蛮の「おもしろ歴史学」

跡部蛮の「おもしろ歴史学」

歴史ファンの皆さんとともに歴史ミステリーにチャレンジし、その謎を解き明かすページです(無断転載禁止)

 以上を踏まえると、次のようなことが考えられます。

 

①『日本書紀』における継体没後の「3年間の空白」

②安閑・宣化を飛ばして欽明が即位したとする『上宮聖徳法王帝説』の記述

 

 これらの矛盾点や謎を解決する方法として、

 

《継体天皇が辛亥の年に発生した事変(内容は不明)で没し、欽明天皇が即位。しかし、その即位に反対する勢力があり、「3年間の空白」を経て安閑天皇が即位するものの、依然として「欽明朝」は存続し、「安閑・宣化朝」と並立した》

 

 という仮説が成り立つわけです。

 

 「辛亥の変」が“仮説の内乱”といわれるゆえんです。

 

 『日本書紀』では継体天皇のあと、安閑天皇・第28代宣化天皇と兄弟順に即位したようになっていますが、実際には欽明と安閑・宣化の兄弟たちが対立し、それぞれ別々に王朝を打ち立て、最終的に欽明天皇によって統一(合一)されたとみられるわけです。

 

 この“仮説の内乱”があったのだとしたら、その戦乱終結によって政権内での求心力を高めた欽明の政権、言い換えれば天皇家の政権がようやく安定したといえます。

 

 こうして欽明天皇の時代になってようやく皇統は同じ血縁集団によって承継されてゆくと考えられます。

 

(おわり)

※天皇については新刊書『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』で詳しく書いています。

 

 それでは仮説の内乱とはどのようなものなのでしょうか。

 

 まず『日本書紀』の記述に矛盾があり、継体天皇(欽明天皇の父)の没年が「辛亥」年(531年)と記載されている一方、その次の第27代安閑天皇(欽明天皇の兄)の即位元年を甲寅年、3年後の534年としていること。

 

 つまり、継体と安閑天皇の治世の間に「空白の3年」が生じているわけです。

 

 そして決定的な矛盾は、平安時代に書かれた『上宮聖徳法王帝説』にあります。

 

 この史料によると、欽明天皇の治世は41年の長きにわたり、その没年から逆算した即位年は辛亥年(531年)となっているのです。

 

 『日本書紀』でいう継体天皇の没年にあたります。

 

 これを信じるなら、継体の次に第29代の欽明が即位し、安閑と第28代宣化天皇の治世が飛ばされていることになります。

 

 さらに朝鮮の史料『百済本記』には、辛亥年に日本の政権内で内紛が生じていたと窺える記述があるのです。

(つづく)

※天皇については新刊書『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』で詳しく書いています。

 これまでみてきたとおり、継体天皇は当時の王朝一族と血縁的につながり、まるで別の血族集団によって皇位が継承されたわけではなかった可能性が浮上しています。

 

 そうはいっても、先代の武烈天皇とはかなり遠い血縁関係にあることから、皇統は事実上断絶したといえなくはありません。

 

 その皇統が安定し、親子相続か兄弟相続かは別にして、世襲体制が確立するのは、継体天皇の皇子で磯嶋宮(奈良県桜井市)を皇居とした第29代天皇(539~71年)の時代の6世紀半ばになってからでしょう。

 

 しかし、皇統が安定するには“仮説の内乱”とされる「辛亥の変」を経なければなりません。

 

 “仮説の内乱”というのはいったいどういうことなのでしょうか。

 

 その意味は、いくつかの史料をもとに「内乱があったはずだ」と解釈しつつも、確実に「内乱があった」とは各史料に記されていないからです。

(つづく)

※天皇については新刊書『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』で詳しく書いています。