跡部蛮の「おもしろ歴史学」

跡部蛮の「おもしろ歴史学」

歴史ファンの皆さんとともに歴史ミステリーにチャレンジし、その謎を解き明かすページです(無断転載禁止)

 後円融天皇は、元関白の二条良基が後見人となることを嫌い、彼が即位礼の際の印明伝授(儀式の一つ)を行うことを拒んでいます。

 

 良基に朝廷の政治を仕切られるのを嫌がるところまではまだよかったのですが、その後、朝廷の儀式が次々と中止に追い込まれてしまいます。

 

 そのことから、「やるべきことをちゃんとやらない人」だったようです。

 

 その間、良基の協力のもと、停滞しがちだった朝廷の政治を動かしていったのは、公家としても昇進を重ねていた将軍足利義満でした。

 

 後円融がその義満と対立する伏線となったのは康暦2年(1380)8月7日のことでした。

 

 天皇側近の公卿の日記によりますと、その日、義満が参内すると後円融は酒宴の最中。

 

 そこで義満はいったん辞去するのですが、それを知った後円融によって、わざわざ内裏へ連れ戻されます。

(つづく)

※天皇については新刊書『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』で詳しく書いています。

 

 天皇家にとって“モンスター”といえる室町幕府3代将軍足利義満(前シリーズ参照)。

 

 その根拠は、彼が天皇家から皇位を簒奪しようとした疑いがあるからですが、その“モンスター”とことごとく対立した後円融天皇はかつて、「武家に最後の抵抗を示した王者」といわれてきました。

 

 ところが、近年になって評価は一変します。

 

 じつは「やるべきことをちゃんとやらない人」(石原比伊呂著「北朝の天皇」参照)とされ、義満が天皇家にとって”モンスター”的存在になったのも、この天皇が「やるべきことをちゃんとやらなかった」ことに理由の一つがあると考えられるようになってきました。

 

 義満との関係を通じ、後円融天皇の素顔に迫ってみましょう。

 

 延文3年(1358)、南北朝の争乱の真っただ中に生まれた後円融天皇と将軍足利義満は同い年の従弟どうしという関係です。

 

 後円融は17歳で北朝の天皇として即位しました。

 

 ところが、元関白の二条良基が後見人となることを嫌い、彼が即位礼の際の印明伝授(儀式の一つ)を行うことを拒んだのです。

(つづく)

※天皇については新刊書『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』で詳しく書いています。

 

ご連絡:2025年の記事は今回が最後となります。

この続きは年明けにアップさせていただきますので、引き続き、本ブログを宜しくお願い申し上げます。

(歴史研究家/跡部蛮)

 義満が日明貿易をおこなうためには、天皇と肩を並べ、明の皇帝から「日本国王」に封じられる必要がありました。

 

 これは、明の柵封国(明を宗主国と仰ぐ国)となることを意味していますが、義満が当代きっての「中国かぶれ」であったのは事実です。

 

 孟子や陰陽道に魅かれ、義満が京に創建した相国寺(臨済宗)も、宋の時代に皇帝の権威の象徴となった首都・開封の大相国寺をモデルにしています。

 

 そして念願かない、義満は応永9年(1402)、明の皇帝より「日本国王源道義」(足利氏は源姓で道義は義満の出家名)の称号を賜るのです。

 

 こうして念願を達成した義満にとって、これ以上、天皇家を追いつめることも、皇位を簒奪する必要もなかったはずです。

 

 しかし、義嗣に皇位を継がせたら、まぎれもない「天皇の父」となることができます。

 

 「日本国王」の地位を盤石にするため、そのような欲がでたとしても不思議ではありません。

 

 それでも義満に「日本国王」を世襲する意思はなかったと考えています。

(おわり)

※天皇については新刊書『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』で詳しく書いています。