『宋書』は、珍と済の関係が父子でも兄弟でもなかったため、あえてその関係を記さなかったと考えられます。
つまり、ここに「倭の五王」の讃・珍(履中・反正)グループと済・興・武(允恭・安康・雄略)のグループとで王の血筋が異なるという解釈が成り立つわけです。
それでは話をもとにもどし、『記・紀』はなぜ、倭王済に比定される允恭天皇の父を仁徳天皇としたのでしょう。
『記・紀』の編纂がはじまった7世紀後半は、ようやく日本の王権が父から子へ、直系で相続されはじめた時代。
前天皇との関係が不明なケースはすべて、当時の考え方にもとづいて父子相続としたと考えられます。
よって『記・紀』では仁徳と允恭との続柄を父子としていますが、疑ってかかる必要がでてくるわけです。
『記・紀』より信頼できる『宋書』が讃・珍グループと済・興・武グループに連続性がないと匂わせたことによって、天皇家の「万世一系」に新たな疑問が浮上した形です。
(つづく)
※天皇については新刊書『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』で詳しく書いています。