◆前回のあらすじ◆
前回——ニンジャの帰り際、Zの方からキスをくれた。私はあの一歩の隙間を、世界で自分だけの場所だと思っていた。
【ドレスと、MISIAと、明るい高速道路】
Zは歌がうまかった。
それも、店の「うまい」の相場を超えてうまかった。
シェネルの「君に贈る歌」と、MISIAの「逢いたくていま」。
私が行くと、毎回この2曲を歌ってくれた。
マイクを持つと少し姿勢が変わる。
狭い店の安いスピーカーが、その時だけいい音に聞こえた。
「逢いたくていま」がどういう歌か、ご存じだろうか。
もう会えない人に、いま逢いたいと歌う歌である。
毎週会いに来る男に向かって歌う歌ではない。
それなのに、なぜか毎回、胸の奥が軋んだ。
あの歌はたぶん、予告編だったのだ。
2023年10月。
Zの「サヨナラ」が来た。
サヨナラというのは、契約期間を終えて帰国するタレントの、最後の出勤日のことだ。
フィリピンパブのタレントは数ヶ月から半年程度の期間で働き、期間が明ければ帰国する。
サヨナラの夜はドレスを着て、常連客に囲まれ、花束と写真とカラオケで、店は一晩中お祭りみたいになる。
祭りの形をした、お別れである。
ドレスを着たZは、ため息が出るほど美しかった。
満席の店内で、Zは歌った。
君に贈る歌。
逢いたくていま。
いつもの2曲が、その夜だけは別の意味を持って店内に響いた。
私は安い酒を舐めながら、ただ聴いていた。
もちろん閉店までいた。
そしてその夜は、家まで帰る気力がなくて、車で寝た。
朝、目が覚めると、隣に友達がいるのに涙がポロポロ落ちてきた。
40男が、朝の駐車場で、である。
友達は何も言わなかった。
ああいう時に何も言わないでいてくれる友達は、大事にした方がいい。
帰りにラーメンを食べる予定だった。
何も食べる気になれなかった。
泣きながら、明るい朝の高速道路を90分走った。
夜の高速なら、まだ様になった。
世界は普通に朝で、通勤の車が走っていて、ラジオは天気予報をやっていて、私だけが終わっていた。
◆次回予告◆
第5話「WiFi工事代、20万円」——帰国したZから届く、写真一枚と、お金の話。スロットで勝ったら送る、という都合のいい会計基準の話。
この物語は全4部の実録エッセイです。
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