あの夜のことは、今でも全部覚えている。
肌に触れた空気の感触
街灯に照らされて光る、木の葉の緑
ものすごい勢いで流れていく灰色の雲と
その向こうに広がる深藍の夜空
どこまでも続きそうな高速道路の灯り
公園から飛び出したら見えた、
何故か悲しげな船堀タワー
あの街から離れて、今日で4ヶ月。
あの街で暮らして、結局2年半。
それでも、
あの夜の私の目が一番に鮮明だった。
☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜
From: 成田
Subject: おはようさち
おはよう
To: 成田
Subject: Re:おはよう
電車ガラガラだょ。
8月13日。
世間はお盆休みへと突入。
お正月やGWに比べれば、そうでもないものの
いつもの土曜日程度の地下鉄へ乗って、
お盆なんて関係ない方針の会社へ、私は向かう。
地方へ帰る人は有給を取ってるから
それでも会社は閑散としている。
別に有給はあるし、急ぎの仕事もないし、
無理に出勤することもなかったのだけれど
出かける当てがあるわけでもなく、
昼間から家にいたところで、余計なことをしたり考えたり。
無理やり蓋した様々な事象が、噴出してこないとも限らない。
実のところもう、蓋は蓋の役割なんてしていないのだけれどね。
明らかに何かが起きている、花魚の内面。
転びそうになりながら、つんのめりながら、
それでも前へ進もうとしている成田さん。
蓋をして歩くのも諦め、噴出するまま全てが壊れるのを願う私。
いわゆる歯に衣着せるというようなメールのやり取り。
どうでもいいような、当たり障りの無い内容だけが行き来する。
とりあえずここだけやり過ごせば、また9月まで進める?
何かが変わってきていること、私はちゃんとわかっている。
成田さんだって全部認識している。
でもそれは言わない。
暗黙のルールだから。
思えば成田さんと、はじめてリアルで会ってから
どれだけ暗黙の約束やルールがあっただろう?
腹を割る、なんて私達の間には通用しなかった。
腹を割れば、存在自体が成立しない。
朝からずっと、何かに追いたてられているような気分だった。
そう、まさにこれは夏の終わりの気分。
どうして夏の終わりはいつも、
何かやり残したような、何かど忘れしているような、
むず痒い、落ち着かない気分になるのかな?
せっかちな夏は少しづつ加速していき、
ついには私達を追い抜いた。
まだ8月も中場だっていうのに、暴走。
もう夏は後姿しか見えていない。
☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜
9時過ぎまで会社にいたけれど、連絡は来なかった。
だから会社を出て、家の近所まで帰っていれば
仕事が終わった成田さんとすぐ会えると、
タイムカードを押して出た。
今までならば地下鉄に乗ってる間にメールが必ず来て
どこか途中の駅や、いつもの川沿いの道で会える。
だから地下鉄のドアの前で、ずっと携帯握り締めて立っていたのに。
結局東大島の駅に着くまで一度も携帯は震えなかった。
駅を降りて、ブラブラと時間を潰した。
なんとなく、来てくれなそうな感じがして、少し覚悟していたの。
どういう根拠かわからない。
たんなる予感。
心のどこかで、
今日来てくれたら、今日で最後。
そういう思いがあったのね。
もうこれ以上進めない。
悲しいけれど諦めていた。
でも、根拠のない予感は、
今日はあの人来ない?とささやいていて、
だからいっそ今日来ないでくれたら、
またお盆が終わって仕切り直しにならないかな?
淡い期待。
でも、あと10分、あと10分だけと待っているうちに、
悲しくなっていくでしょう。
お盆中の夜の街はいつもと全然違う。
歩いている人はちょっとだけ。
灯りのついてるお店も少な目。
無駄に輝く、ツタヤやマックの灯りが淋しく見える。
お店の中もいつもより少し静か。
生暖かい風が吹いて、街路樹がざわざわと揺れてる。
低い雲がすごいスピードで枝の間を通過していくのが見えたら
我慢していたのに、少し涙が出てきた。
まぁいわゆる状況に酔っているだけなんだろうけども。
1回涙が出ると、淋しくて止まらなくなる、
10分も歩かないで、ちゃんと待っている人のいるお家があるのに、
私は迷子みたく街を歩き回っている。
バッカみたい。
時計を見れば10時半。
もう来てくれたところで、
明日早いはずの成田さんとは、そんなに長くいられない。
でも、顔だけでも見せてくれたら、
それ以外何にもいらないのに。
そんな気分にすらなってくる。
Subject: お疲れ様です
To: 成田
来れるのか来れないのかくらいは
教えてくれてもいいような気がする。
これだけ待ってて「いけません」じゃ、
ちょっと残酷すぎ
返事はすぐに来た。
おかしいくらいすぐに来た。
こんなにすぐに返事ができるなら、
どうしてもっと早く連絡をしないんだろうと
誰もが訝しむくらいすぐに。
From: 成田
Subject: Re:お疲れ様です
ごめんなさい
お袋の具合が悪くなって、先生が来てくれています。
痛み止めの処置をして終了です。
腕が上がらないし動かなくなってね。
前にも一度あったんだけど。
僕は残酷で駄目な人ですね、本当にごめんなさい。
何を言い出すんだ。この人は・・・
残酷な人で、ごめんなさいで、
結局どうするのかは明言せず。
取り込んでいたのはわかるけど、
どうしてその間簡単なメール一通入れることができないのか?
私から連絡したら即座に返信が来るのはどうしてか?
この日、成田さんが言った話が嘘だったのか、本当だったのか
本当は何が起きたのか、今でも全くわからない。
だけでも、この時は追求するのも嫌になるくらい
全てがつっこみどころ満載で、
見ないふりをしようと、言っていることを信じようと、
懸命に努力をしてもどうにもならない。
Subject: Re:了解です
To: 成田
大変だよね。仕方ないよ。
わかってるけど、町は人が全然いなくて寂しくて、
来てくれなかったらどうしようって不安で、
なんかもう悲しくてどうしていいかわかんない。
何時でもいいから待ってるって言ったら来てくれるの?ダメでしょ?
じゃあ明日代わりに会ってって言ったら?ダメでしょ?
私には何もない。
でも怒っても成田さんは困るだけ。
From: 成田
Subject: Re:
おふくろは眠ったようです。明日はいっぱいだから、今から出ます。
少しなら大丈夫です。幼稚園に向かいます。
もう来ないで欲しかった。
私の目の前に二度と姿を現さないで欲しかった。
溺れた人の目をして、転びそうな嘘を並べて欲しくはなかった。
でも、会いたかった。
冷たくて、硬い指に触りたかった。
私は川沿いの道へ向かった。
公園から、道路へ出たら
目の前に船堀タワー
寂しげに揺れる灯り。
これも一生忘れないようにしよう。
なぜかそう思った。
どんなにこれから悲しいことが起きたとしても
今見ている全ては忘れないようにしよう。
私は走った。
☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜
来てくれたけど、私は顔をまともに見ることもできなかった。
やっぱり怒ってる気持ちがおさまらず。
予想通り、歯切れの悪い言い訳を並べる。
いつつまずくかとこっちが心配になるくらい。
はっきり言ってくれたらいいのに。今日は来る気がなかったって。
「もういいよ」
助手席の私は、目をそらして表を見たまま遮った。
「成田さん、転びそう。しどろもどろだよ?」
苦笑い。
成田さんは、それっきり言い訳をやめた。
それは肯定?
苦しい言い訳をしていると肯定?
「どうしてそんな顔するの?」
困ったように聞いてくるの。
「どんな顔?」
「悲しそうな顔。」
「かわいくない?」
「かわいいけどさぁ」
手を握ってくれる。またちょっと悲しくなるね。
「泣きそうだよ。そんな顔はじめてみたよ。」
「かわいくない?」
この人の前ではかわいいかどうかだけを気にしていようと決めたの。
「かわいいけど、いつものほうがかわいい。」
めずらしく強めに頬を押さえキスをする。
優しい。
唇の感触が好き。
官能的ではないけれど、優しくて心地いい。
「行こう」
成田さんは車のエンジンをかけた。
「明日、早いんでしょ?」
私は虚ろに言った。
頭の中が霧がかっている。
「大丈夫。朝少し寝たらもつから」
いいのに、私はいいのに。
そう言おうとしても声は出ず、もがくように手を伸ばした。
「大丈夫。」
成田さんはまた言った。
「夏休みでしょ?」
また言った。
その5文字は、私を突き落とす。
ほんのちょっと、踏ん張ってた足の先
その一言で、私は落ちた。
☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜
特別な夏休み。
でも限りある夏休み。
明日早いからって言ったくせにホテルへ行った。
寝不足も、不埒も、夏休みには関係無いから。
ベッドの上、横になった成田さんに
私は覆いかぶさるようにキスをする。
何度も何度もキスをする。
唇も、舌も、千切れそうなくらいに吸う。
苦しそうに唸った後に、
成田さんは私の頬を両手で持ち上げ、少し強めに離す。
見上げて、長い間私の顔を見る。
黙ったきり。
「どうしてそんなに見るの?」
「このアングルで見るさちが好きなんだ」
私は成田さんの両手を無理やり跳ね除けて、
またキスをする。
もうめちゃくちゃにキスをする。
そうしたら成田さんは、私の腰を痛いくらいに押さえて、
仰向けに引っくり返らせた。
「好きだよ。さち」
囁きながら、まためちゃくちゃなキス。
「お風呂入らないの?」
唇の隙間から、呻くように私は聞く。
バスルームのお湯の音、さっきから止まっている。
「お風呂?入るでしょ?」
返事をしない成田さんから、無理やり離れて服を脱ぐ。
下着姿になったのに腕を引っ張られる。
「お風呂入るんでしょ?」
「いいの。見せてよ。」
またキスの嵐。
「きれい、さちきれいだよ。」
うなされたように囁き続ける。
きれいだよ。
愛してる。
好きだよ。
それは間違いないんだけどね。
でもね
あんなに愛してると言って、きれいだと言って、
愛される自分を誇らしそうにして、
それでも私はいらないと言う。つまらない女を優先にする。
だからめちゃくちゃにしてやる。
甘い囁き 蜜の時間 淀んだ空気
乾いた表皮 風も流れてこない
こんなところで、こんなことをするために
私はあの人に恋をしたんじゃない。
粘度を持って動いていく、緩やかな時間
逃れるように私は首を振る。
めちゃくちゃにしてやる。
私はあの人の名前を呼ぶ。
届かない。
あの人には聴こえていない。
水中から、いくら叫んでも
水槽の外にいるあの人には聴こえていない。
私は、まわした手で、成田さんの背中を掴む。
快楽の方へ、流れていく意識の中
ただひたすら朝を恐れる。
次へ
目次へ
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肌に触れた空気の感触
街灯に照らされて光る、木の葉の緑
ものすごい勢いで流れていく灰色の雲と
その向こうに広がる深藍の夜空
どこまでも続きそうな高速道路の灯り
公園から飛び出したら見えた、
何故か悲しげな船堀タワー
あの街から離れて、今日で4ヶ月。
あの街で暮らして、結局2年半。
それでも、
あの夜の私の目が一番に鮮明だった。
☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜
From: 成田
Subject: おはようさち
おはよう
To: 成田
Subject: Re:おはよう
電車ガラガラだょ。
8月13日。
世間はお盆休みへと突入。
お正月やGWに比べれば、そうでもないものの
いつもの土曜日程度の地下鉄へ乗って、
お盆なんて関係ない方針の会社へ、私は向かう。
地方へ帰る人は有給を取ってるから
それでも会社は閑散としている。
別に有給はあるし、急ぎの仕事もないし、
無理に出勤することもなかったのだけれど
出かける当てがあるわけでもなく、
昼間から家にいたところで、余計なことをしたり考えたり。
無理やり蓋した様々な事象が、噴出してこないとも限らない。
実のところもう、蓋は蓋の役割なんてしていないのだけれどね。
明らかに何かが起きている、花魚の内面。
転びそうになりながら、つんのめりながら、
それでも前へ進もうとしている成田さん。
蓋をして歩くのも諦め、噴出するまま全てが壊れるのを願う私。
いわゆる歯に衣着せるというようなメールのやり取り。
どうでもいいような、当たり障りの無い内容だけが行き来する。
とりあえずここだけやり過ごせば、また9月まで進める?
何かが変わってきていること、私はちゃんとわかっている。
成田さんだって全部認識している。
でもそれは言わない。
暗黙のルールだから。
思えば成田さんと、はじめてリアルで会ってから
どれだけ暗黙の約束やルールがあっただろう?
腹を割る、なんて私達の間には通用しなかった。
腹を割れば、存在自体が成立しない。
朝からずっと、何かに追いたてられているような気分だった。
そう、まさにこれは夏の終わりの気分。
どうして夏の終わりはいつも、
何かやり残したような、何かど忘れしているような、
むず痒い、落ち着かない気分になるのかな?
せっかちな夏は少しづつ加速していき、
ついには私達を追い抜いた。
まだ8月も中場だっていうのに、暴走。
もう夏は後姿しか見えていない。
☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜
9時過ぎまで会社にいたけれど、連絡は来なかった。
だから会社を出て、家の近所まで帰っていれば
仕事が終わった成田さんとすぐ会えると、
タイムカードを押して出た。
今までならば地下鉄に乗ってる間にメールが必ず来て
どこか途中の駅や、いつもの川沿いの道で会える。
だから地下鉄のドアの前で、ずっと携帯握り締めて立っていたのに。
結局東大島の駅に着くまで一度も携帯は震えなかった。
駅を降りて、ブラブラと時間を潰した。
なんとなく、来てくれなそうな感じがして、少し覚悟していたの。
どういう根拠かわからない。
たんなる予感。
心のどこかで、
今日来てくれたら、今日で最後。
そういう思いがあったのね。
もうこれ以上進めない。
悲しいけれど諦めていた。
でも、根拠のない予感は、
今日はあの人来ない?とささやいていて、
だからいっそ今日来ないでくれたら、
またお盆が終わって仕切り直しにならないかな?
淡い期待。
でも、あと10分、あと10分だけと待っているうちに、
悲しくなっていくでしょう。
お盆中の夜の街はいつもと全然違う。
歩いている人はちょっとだけ。
灯りのついてるお店も少な目。
無駄に輝く、ツタヤやマックの灯りが淋しく見える。
お店の中もいつもより少し静か。
生暖かい風が吹いて、街路樹がざわざわと揺れてる。
低い雲がすごいスピードで枝の間を通過していくのが見えたら
我慢していたのに、少し涙が出てきた。
まぁいわゆる状況に酔っているだけなんだろうけども。
1回涙が出ると、淋しくて止まらなくなる、
10分も歩かないで、ちゃんと待っている人のいるお家があるのに、
私は迷子みたく街を歩き回っている。
バッカみたい。
時計を見れば10時半。
もう来てくれたところで、
明日早いはずの成田さんとは、そんなに長くいられない。
でも、顔だけでも見せてくれたら、
それ以外何にもいらないのに。
そんな気分にすらなってくる。
Subject: お疲れ様です
To: 成田
来れるのか来れないのかくらいは
教えてくれてもいいような気がする。
これだけ待ってて「いけません」じゃ、
ちょっと残酷すぎ
返事はすぐに来た。
おかしいくらいすぐに来た。
こんなにすぐに返事ができるなら、
どうしてもっと早く連絡をしないんだろうと
誰もが訝しむくらいすぐに。
From: 成田
Subject: Re:お疲れ様です
ごめんなさい
お袋の具合が悪くなって、先生が来てくれています。
痛み止めの処置をして終了です。
腕が上がらないし動かなくなってね。
前にも一度あったんだけど。
僕は残酷で駄目な人ですね、本当にごめんなさい。
何を言い出すんだ。この人は・・・
残酷な人で、ごめんなさいで、
結局どうするのかは明言せず。
取り込んでいたのはわかるけど、
どうしてその間簡単なメール一通入れることができないのか?
私から連絡したら即座に返信が来るのはどうしてか?
この日、成田さんが言った話が嘘だったのか、本当だったのか
本当は何が起きたのか、今でも全くわからない。
だけでも、この時は追求するのも嫌になるくらい
全てがつっこみどころ満載で、
見ないふりをしようと、言っていることを信じようと、
懸命に努力をしてもどうにもならない。
Subject: Re:了解です
To: 成田
大変だよね。仕方ないよ。
わかってるけど、町は人が全然いなくて寂しくて、
来てくれなかったらどうしようって不安で、
なんかもう悲しくてどうしていいかわかんない。
何時でもいいから待ってるって言ったら来てくれるの?ダメでしょ?
じゃあ明日代わりに会ってって言ったら?ダメでしょ?
私には何もない。
でも怒っても成田さんは困るだけ。
From: 成田
Subject: Re:
おふくろは眠ったようです。明日はいっぱいだから、今から出ます。
少しなら大丈夫です。幼稚園に向かいます。
もう来ないで欲しかった。
私の目の前に二度と姿を現さないで欲しかった。
溺れた人の目をして、転びそうな嘘を並べて欲しくはなかった。
でも、会いたかった。
冷たくて、硬い指に触りたかった。
私は川沿いの道へ向かった。
公園から、道路へ出たら
目の前に船堀タワー
寂しげに揺れる灯り。
これも一生忘れないようにしよう。
なぜかそう思った。
どんなにこれから悲しいことが起きたとしても
今見ている全ては忘れないようにしよう。
私は走った。
☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜
来てくれたけど、私は顔をまともに見ることもできなかった。
やっぱり怒ってる気持ちがおさまらず。
予想通り、歯切れの悪い言い訳を並べる。
いつつまずくかとこっちが心配になるくらい。
はっきり言ってくれたらいいのに。今日は来る気がなかったって。
「もういいよ」
助手席の私は、目をそらして表を見たまま遮った。
「成田さん、転びそう。しどろもどろだよ?」
苦笑い。
成田さんは、それっきり言い訳をやめた。
それは肯定?
苦しい言い訳をしていると肯定?
「どうしてそんな顔するの?」
困ったように聞いてくるの。
「どんな顔?」
「悲しそうな顔。」
「かわいくない?」
「かわいいけどさぁ」
手を握ってくれる。またちょっと悲しくなるね。
「泣きそうだよ。そんな顔はじめてみたよ。」
「かわいくない?」
この人の前ではかわいいかどうかだけを気にしていようと決めたの。
「かわいいけど、いつものほうがかわいい。」
めずらしく強めに頬を押さえキスをする。
優しい。
唇の感触が好き。
官能的ではないけれど、優しくて心地いい。
「行こう」
成田さんは車のエンジンをかけた。
「明日、早いんでしょ?」
私は虚ろに言った。
頭の中が霧がかっている。
「大丈夫。朝少し寝たらもつから」
いいのに、私はいいのに。
そう言おうとしても声は出ず、もがくように手を伸ばした。
「大丈夫。」
成田さんはまた言った。
「夏休みでしょ?」
また言った。
その5文字は、私を突き落とす。
ほんのちょっと、踏ん張ってた足の先
その一言で、私は落ちた。
☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜
特別な夏休み。
でも限りある夏休み。
明日早いからって言ったくせにホテルへ行った。
寝不足も、不埒も、夏休みには関係無いから。
ベッドの上、横になった成田さんに
私は覆いかぶさるようにキスをする。
何度も何度もキスをする。
唇も、舌も、千切れそうなくらいに吸う。
苦しそうに唸った後に、
成田さんは私の頬を両手で持ち上げ、少し強めに離す。
見上げて、長い間私の顔を見る。
黙ったきり。
「どうしてそんなに見るの?」
「このアングルで見るさちが好きなんだ」
私は成田さんの両手を無理やり跳ね除けて、
またキスをする。
もうめちゃくちゃにキスをする。
そうしたら成田さんは、私の腰を痛いくらいに押さえて、
仰向けに引っくり返らせた。
「好きだよ。さち」
囁きながら、まためちゃくちゃなキス。
「お風呂入らないの?」
唇の隙間から、呻くように私は聞く。
バスルームのお湯の音、さっきから止まっている。
「お風呂?入るでしょ?」
返事をしない成田さんから、無理やり離れて服を脱ぐ。
下着姿になったのに腕を引っ張られる。
「お風呂入るんでしょ?」
「いいの。見せてよ。」
またキスの嵐。
「きれい、さちきれいだよ。」
うなされたように囁き続ける。
きれいだよ。
愛してる。
好きだよ。
それは間違いないんだけどね。
でもね
あんなに愛してると言って、きれいだと言って、
愛される自分を誇らしそうにして、
それでも私はいらないと言う。つまらない女を優先にする。
だからめちゃくちゃにしてやる。
甘い囁き 蜜の時間 淀んだ空気
乾いた表皮 風も流れてこない
こんなところで、こんなことをするために
私はあの人に恋をしたんじゃない。
粘度を持って動いていく、緩やかな時間
逃れるように私は首を振る。
めちゃくちゃにしてやる。
私はあの人の名前を呼ぶ。
届かない。
あの人には聴こえていない。
水中から、いくら叫んでも
水槽の外にいるあの人には聴こえていない。
私は、まわした手で、成田さんの背中を掴む。
快楽の方へ、流れていく意識の中
ただひたすら朝を恐れる。
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