☆日本ダービー
いつもの通り早くに目が覚めて、自転車のタイヤに空気を入れた。
私の自転車は、乗るたびに空気を入れなければならない。
まだ1年しか乗っていないのに、たぶん酷使が原因だろう。
今日も晴天。空の色は夏だった。
毎年ダービーが来る頃、空気は一気に夏へと変わる感じがする。
リビングで、コーヒーを飲みながらエイトを見た。
一昨日、病院で買ったのと同じエイト。
昨日買えばよかったのに、なんとなく同じエイトを見続けている。
決めた。
サンツェッペリン。
単勝を買おう。
簡単にお化粧をして、ジーパンとTシャツに着替えた。
もうすっかり夏の装いって感じ。
とても一時帰宅中の病人には見えずご満悦。
タカキはまだ寝ていたから、起こさないようにそっと家を出た。
自転車で走り出すと、日差しは強いけれど風はまだ若干冷たかった。
夏の太陽と春の風。
多分きっとそれがダービーの日。
考え事をしながら、ダラダラと自転車をこいで、
気がついたらもう8時40分。時間が無い。
京葉道路。
思い切り自転車をこぐ。
横十間川を渡ってすぐ、赤いスクーターに追い抜かれた。
あっ、成田さんだ。
そのまま減速もしないで行ってしまったけれど、
何故か上半身を屈めて、靴の踵を触っていた。
私はさらに焦って必死で自転車をこぎ、
新しい方のWINSの地下駐輪場へ飛び込む。
エレベータで1階に上がる。
成田さんは新聞スタンドのお姉さんと、新聞片手に何か話していた。
私に気が付くと、「おはよう」とこっちに歩いてくる。
そう言えば久しぶりに顔を見た気がする。
たった3日会わなかっただけなのに。
会わないのに、あんなにたくさんメールをしていたから
なんだか不思議な感じ。
「追い越された。ブーンって先、行っちゃった」
私が言うと、
「気づいてたよ。あんなところで止まれないでしょ」
と笑った。
エスカレータで2階に上がり、空いているテーブルの前に並んで立ったら、
「はい」
って、缶コーヒーを渡してくれた。
「ありがとう」
私はやっぱり相変わらず照れくさくて、それを隠すために
少し雑な仕草で「開けて」ともう一度返した。
「ごめん。開けてから渡せばよかったね」
と成田さんは苦笑い。
開けてくれた缶コーヒーを渡してくれた後に、持っていた紙袋もくれる。
「病院で読んでください」
優駿。目に入る「ダービープレビュー」の文字。
「今晩、病院へ帰ったら読むね。ダービープレビュー。」
もうダービーも終わった後にプレビュー、おかしくて笑う。
「いいじゃない。もう一度勝負をしたらどの馬が勝つか、何度も楽しめる。」
成田さんも笑う。
「サンツェッペリン買うの。単勝。」
私はシワシワになったエイトを取り出す。
「いいね、飛行船」
「サンツェッペリンが来たら、決めてることがあるの」
そう、決めてるの。あなたとはもう二度と会わない。
「なにを?」
不思議そうな顔をして聞くけれど、私は笑顔で
「おしえなーいっ!」
と言った。
大事なことはいつもそうやって決める。
イクノディクタスが2着になった宝塚記念からずっとそう。
でもサンツェッペリンは単勝9番人気。ずいぶん偏った賭けだな。
どうせ来ないと思っている。私やっぱり意気地無し。
「今日の東京9レース、カイシュウタキオンが出ますよ」
「好きだねー、カイシュウタキオン」
去年の日記から、成田さんの特別推奨馬はカイシュウタキオン。
まだ準オープンなんだけど。
「2歳からずっと応援してるんだ。
当初の予定では今頃重賞2つ3つ獲ってるはずなんだよなぁ」
9時5分前になって、場内テレビが一斉にテスト放送を始めた。
「テスト放送」の文字に合わせて音楽が流れる。
「あっ、この曲。昨日の日記の?」
「うん。この時間になると毎週かかるの」
ヒラボクロイヤルの出来が凄いらしいよ、とか
適当な情報を口にしつつ、お互いにマークシートを塗る。
サンツェッペリン単勝2000円。
あとは適当な馬で3連複5頭BOXとか。
9時になって、馬券を買った。
あと6時間半くらいで今年のダービー馬が決まる。
☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜
自転車置き場のスロープを上がり、
バイクを出してくる成田さんを道路で待っていた。
成田さんはすぐに車道には出ず、
赤いスクータを押して一緒に歩道を歩いてくれた。
表に出ても相変わらず、馬のことを話していただけなんだけど。
京葉と四つ目の交差点で、
「じゃあ」
って、成田さんはヘルメットをかぶった。
「うん」
笑顔を作ろうとしたら失敗した。思いっきりひきつった。
「泣きそうな顔、してる」
笑って、成田さんは手の平を私の方へ出した。
広げた成田さんの手の平に、そっと指の先で触れる。
もう我慢出来なくて、涙がボロッと、
ものすごい重量感を伴いながら落ちていった。
「泣かぁないの」
私の指を握って、上下に振りながら、成田さんは困ったように笑った。
どうして泣くの?とかそういうくだらないことをこの人は聞かない。
「じゃあね」
もうキリが無くて、私は自分から言い、自転車にまたがった。
「ありがとうね」
「大した物じゃないよ」
雑誌とコーヒーのお礼だと思ったらしい成田さんは手を振った。
違うのに。
私にしてくれたたくさんのことひっくるめて、
ありがとうって言ったのに。
また、振り返らずに四つ目を曲がった。
涙が止まらなくて、誤魔化すために夢中で自転車をこいだ。
新大橋通りを、ほぼパーフェクトに泣きっぱなしで走りぬける。
泣き顔で家には帰れない。
家の近くまで来た私は、家の裏の公園に自転車ごと突っ込み、
倒れ込むようにベンチへ座りメールを打った。
Subject: ありがとう
To: 成田
本とコーヒーありがとう。
いつも色々してくれて、何もお返しできない。
成田さんのためになにができるのか、
昨日の朝起きてからずっと考えてる。
多分ひとつしかないんだと思う。
ダービーの日の朝に必死で自転車こいで錦糸町まで行ったことは、
ダービー馬の名前といっしょに一生覚えてるんだろうな。
そう、ずっと考えていた。
サンツェッペリンが勝っても勝たなくても、
私はちゃんと考えなければいけないんだ。
私の大好きな成田さんに、
これ以上つらい思いをさせちゃいけないんだ。
From: 成田
Subject: Re:ありがとう
さちさんが僕のためにできることは、
病気を克服して、来年のダービーも当てることです。
素敵なメールありがとう。何が勝つかな。
もうダメだ。
どうしてこの人は、こうも私の弱いところだけを
真っすぐ突いてくるんだろう。
☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜
2007年のダービーはウォッカが圧勝した。
64年ぶりの牝馬によるダービー制覇。
えらいことになっちゃった。
そこそこ人気はしていたけれど、
まさか頭で来るなんて信じていた人は少ないだろう。
いくらスローの上がり勝負にしたってほどがある。
直線のあの力強い脚、自在に伸びる馬体。
サンツェッペリンは4着。まぁ好走なのかな?
本当は勝って欲しくない、私の心の願いが通じたのか。
でもあんまりだ。
- 今年のダービーを、勝ち馬の名前と一緒にこの曲へ閉じ込めます。
閉じ込めるにはあまりに凄すぎる。
こんなダービー一生忘れられっこない。
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いつもの通り早くに目が覚めて、自転車のタイヤに空気を入れた。
私の自転車は、乗るたびに空気を入れなければならない。
まだ1年しか乗っていないのに、たぶん酷使が原因だろう。
今日も晴天。空の色は夏だった。
毎年ダービーが来る頃、空気は一気に夏へと変わる感じがする。
リビングで、コーヒーを飲みながらエイトを見た。
一昨日、病院で買ったのと同じエイト。
昨日買えばよかったのに、なんとなく同じエイトを見続けている。
決めた。
サンツェッペリン。
単勝を買おう。
簡単にお化粧をして、ジーパンとTシャツに着替えた。
もうすっかり夏の装いって感じ。
とても一時帰宅中の病人には見えずご満悦。
タカキはまだ寝ていたから、起こさないようにそっと家を出た。
自転車で走り出すと、日差しは強いけれど風はまだ若干冷たかった。
夏の太陽と春の風。
多分きっとそれがダービーの日。
考え事をしながら、ダラダラと自転車をこいで、
気がついたらもう8時40分。時間が無い。
京葉道路。
思い切り自転車をこぐ。
横十間川を渡ってすぐ、赤いスクーターに追い抜かれた。
あっ、成田さんだ。
そのまま減速もしないで行ってしまったけれど、
何故か上半身を屈めて、靴の踵を触っていた。
私はさらに焦って必死で自転車をこぎ、
新しい方のWINSの地下駐輪場へ飛び込む。
エレベータで1階に上がる。
成田さんは新聞スタンドのお姉さんと、新聞片手に何か話していた。
私に気が付くと、「おはよう」とこっちに歩いてくる。
そう言えば久しぶりに顔を見た気がする。
たった3日会わなかっただけなのに。
会わないのに、あんなにたくさんメールをしていたから
なんだか不思議な感じ。
「追い越された。ブーンって先、行っちゃった」
私が言うと、
「気づいてたよ。あんなところで止まれないでしょ」
と笑った。
エスカレータで2階に上がり、空いているテーブルの前に並んで立ったら、
「はい」
って、缶コーヒーを渡してくれた。
「ありがとう」
私はやっぱり相変わらず照れくさくて、それを隠すために
少し雑な仕草で「開けて」ともう一度返した。
「ごめん。開けてから渡せばよかったね」
と成田さんは苦笑い。
開けてくれた缶コーヒーを渡してくれた後に、持っていた紙袋もくれる。
「病院で読んでください」
優駿。目に入る「ダービープレビュー」の文字。
「今晩、病院へ帰ったら読むね。ダービープレビュー。」
もうダービーも終わった後にプレビュー、おかしくて笑う。
「いいじゃない。もう一度勝負をしたらどの馬が勝つか、何度も楽しめる。」
成田さんも笑う。
「サンツェッペリン買うの。単勝。」
私はシワシワになったエイトを取り出す。
「いいね、飛行船」
「サンツェッペリンが来たら、決めてることがあるの」
そう、決めてるの。あなたとはもう二度と会わない。
「なにを?」
不思議そうな顔をして聞くけれど、私は笑顔で
「おしえなーいっ!」
と言った。
大事なことはいつもそうやって決める。
イクノディクタスが2着になった宝塚記念からずっとそう。
でもサンツェッペリンは単勝9番人気。ずいぶん偏った賭けだな。
どうせ来ないと思っている。私やっぱり意気地無し。
「今日の東京9レース、カイシュウタキオンが出ますよ」
「好きだねー、カイシュウタキオン」
去年の日記から、成田さんの特別推奨馬はカイシュウタキオン。
まだ準オープンなんだけど。
「2歳からずっと応援してるんだ。
当初の予定では今頃重賞2つ3つ獲ってるはずなんだよなぁ」
9時5分前になって、場内テレビが一斉にテスト放送を始めた。
「テスト放送」の文字に合わせて音楽が流れる。
「あっ、この曲。昨日の日記の?」
「うん。この時間になると毎週かかるの」
ヒラボクロイヤルの出来が凄いらしいよ、とか
適当な情報を口にしつつ、お互いにマークシートを塗る。
サンツェッペリン単勝2000円。
あとは適当な馬で3連複5頭BOXとか。
9時になって、馬券を買った。
あと6時間半くらいで今年のダービー馬が決まる。
☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜
自転車置き場のスロープを上がり、
バイクを出してくる成田さんを道路で待っていた。
成田さんはすぐに車道には出ず、
赤いスクータを押して一緒に歩道を歩いてくれた。
表に出ても相変わらず、馬のことを話していただけなんだけど。
京葉と四つ目の交差点で、
「じゃあ」
って、成田さんはヘルメットをかぶった。
「うん」
笑顔を作ろうとしたら失敗した。思いっきりひきつった。
「泣きそうな顔、してる」
笑って、成田さんは手の平を私の方へ出した。
広げた成田さんの手の平に、そっと指の先で触れる。
もう我慢出来なくて、涙がボロッと、
ものすごい重量感を伴いながら落ちていった。
「泣かぁないの」
私の指を握って、上下に振りながら、成田さんは困ったように笑った。
どうして泣くの?とかそういうくだらないことをこの人は聞かない。
「じゃあね」
もうキリが無くて、私は自分から言い、自転車にまたがった。
「ありがとうね」
「大した物じゃないよ」
雑誌とコーヒーのお礼だと思ったらしい成田さんは手を振った。
違うのに。
私にしてくれたたくさんのことひっくるめて、
ありがとうって言ったのに。
また、振り返らずに四つ目を曲がった。
涙が止まらなくて、誤魔化すために夢中で自転車をこいだ。
新大橋通りを、ほぼパーフェクトに泣きっぱなしで走りぬける。
泣き顔で家には帰れない。
家の近くまで来た私は、家の裏の公園に自転車ごと突っ込み、
倒れ込むようにベンチへ座りメールを打った。
Subject: ありがとう
To: 成田
本とコーヒーありがとう。
いつも色々してくれて、何もお返しできない。
成田さんのためになにができるのか、
昨日の朝起きてからずっと考えてる。
多分ひとつしかないんだと思う。
ダービーの日の朝に必死で自転車こいで錦糸町まで行ったことは、
ダービー馬の名前といっしょに一生覚えてるんだろうな。
そう、ずっと考えていた。
サンツェッペリンが勝っても勝たなくても、
私はちゃんと考えなければいけないんだ。
私の大好きな成田さんに、
これ以上つらい思いをさせちゃいけないんだ。
From: 成田
Subject: Re:ありがとう
さちさんが僕のためにできることは、
病気を克服して、来年のダービーも当てることです。
素敵なメールありがとう。何が勝つかな。
もうダメだ。
どうしてこの人は、こうも私の弱いところだけを
真っすぐ突いてくるんだろう。
☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜
2007年のダービーはウォッカが圧勝した。
64年ぶりの牝馬によるダービー制覇。
えらいことになっちゃった。
そこそこ人気はしていたけれど、
まさか頭で来るなんて信じていた人は少ないだろう。
いくらスローの上がり勝負にしたってほどがある。
直線のあの力強い脚、自在に伸びる馬体。
サンツェッペリンは4着。まぁ好走なのかな?
本当は勝って欲しくない、私の心の願いが通じたのか。
でもあんまりだ。
- 今年のダービーを、勝ち馬の名前と一緒にこの曲へ閉じ込めます。
閉じ込めるにはあまりに凄すぎる。
こんなダービー一生忘れられっこない。
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