参考になるかと思い、これまでの製作活動のまとめを書いてみました。もしも少しでもヒントになったら嬉しいのでご覧になってください。

 

私がフォルムスクール(現アテナ宝石デザイン研究所)を卒業したのは1980年になります。

フォルムスクールの4期生で現在アテナの主任講師である山本総規先生とは同級生。

当時はよく遊び良く学びました。中央が山本君。

 

在学期間は二年ほどでしたが、山本君はじめ5人が武蔵野美術大学生でそのほかにもスタイリスト、ジュエリーの職人さんなどがいて大変レベルが高かったので、私も必死に勉強しました。

 

当時はコンテストが数多くあり、フォルム入学前の彫金教室でダイヤモンドデザインコンテストに2点入選していましたが、入学してからはほぼ全てのコンテストで入賞しました。

在学中に10以上のコンテストに入賞していたので、就職の時はスカウトの人が来てある会社と契約させていただきました。


その会社ではいきなり世界の一流ブランドのデザインをさせていただきました。社長に同行しニューヨークのホテルで「決まりましたよ。ティファニー、ヴァンクリーフ、カルティエ」と現地の社長に言われた時には、その意味すら解ってなかった気がします。

ニューヨーク、スイスヴァ―ゼル、ハワイで開催されたワールドゴールドのファッションショーのジュエリーデザインをさせていただいたこともあります(写真)打ち合わせにニューヨークやスイスにビジネスクラスで同行させて頂いたりと大変に恵まれた環境でした。

 

Gold in Fashionの記念本。表紙も筆者の作品。

 

 

ところが恵まれていた分、やっかみや嫌がらせも多く、いじめを受けてその会社の仕事は数年で辞めることになりました。

 

フリーになってからも仕事は順調でしたが、ジュエリーの世界は絶頂期だっただけに、競争も激しく、想いもよらない妨害もされました。いろいろな意味で日本のジュエリー界に嫌気がさしてきたころ、海外に行きたい、そこで自分の力がどこまで通用するか、試してみたいと思うようになったのです。

 

イタリアはジュエリー文化発祥の地であり、当時は迫力のあるイタリアンジュエリーの全盛時代でした。イタリアで認めてもらえれば、自信を持って日本でも創作活動ができる。失敗したらもう日本のジュエリー界には戻ってこないと言う決意で、作ったばかりの会社をアシスタントに任せて2か月ほど休みを取り、ミラノに向かったのです。

 

知り合いもいないので今考えれば無鉄砲なのですが、1月にヴィチェンツアのジュエリーフェアに行き、つてを探しその後ミラノで個展会場を探したいと言う計画でした。友人がミラノにいる彫刻家のナガタニと言う人がアーテイストだからギャラリーを知っていると思うと電話番号をもたせてくれました。また別の友人は、外務大臣の推薦状まで用意してくれていました。

 

期待と不安で胸が高鳴る中、88年1月

私はイタリアへ向かったのです。

 

                水野薫子記