みなさん、こんにちは。
五月雨式のスレッドとなり、すみません。
今回は、次のテーマです。
『女衒と鵜匠』
下記の記事についてということになります。
最初にニュースを目にしたときは、年寄りを殺害して財布の金を抜くというのは、随分ひどい女性が居るもんだなという印象でした。必ずしも、そういう街では無いので。
ですが、上記の記事からその内容を見て、そうだったのかと思いました。
昔だったら、女が重罪を起こすのは、男が原因みたいなイメージがあったものですが、今も似たり寄ったりな部分を残しているのでしょうか。
この社会では、確かに生まれる時から『親ガチャ』など言われる問題があります。ですが、多かれ少なかれ、次のことがあると思うのです。
『 Fair Trade 』 公正な取引
が、しかし。実際、生身の人間が、【公正】と認知できるのは、案外偏りを含んだ上でのことだと、私個人は思います。なぜなら、多くの人には囚われというものが無意識の内にもあり、また個別の価値観もあり、本当の公正を評価できる人は少ない気がするのです。
ですが、ここでは一定の範囲内で、公正かもしれないその基準みたいなものを認めて上げることにしましょう。
たとえば、結構なお金持ちの家があり、親が(例えが悪くて恐縮ですが)医者だったとします。子どもは、医者になることを暗に望まれて育つとします。ですが、当人であるところの実子(この場合長男S君とします)は素質が乏しく親の期待に応えられないとします。
親の出資 ≠ 子の成果
となると、あるある感がしてきますよね。多分100%近く、上記の問題は、この世の中で発生すると思うのです。ですが、そこから先で辿る道は、人それぞれに違いがあると思います。
Eさんは、実際はそうなのだけれども、バカな子ほどかわいいと思い、「仕方がないのよ、うちの場合は」と言って暮らしたとします。【かわいいが報酬】
Fさんは、嫁の立場として、嫁の教育が悪いとされるため、あくまでも厳しく教育することに頑張り続けたとします。【嫁の立場の保全が報酬】
Gさんは、自分の生きがいを別に追い求め、無視して暮らしたとします。【自由が報酬】
Hさんは、親の立場として、子どもはしっかり教育するのが良いと考え、あくまでも厳しく教育することに頑張り続けたとします。【教育者としてのあるべき論(自己実現)が報酬】
Iさんは、弟の次男T君に希望を見出し、S君については半分諦めて、普通と思われる範囲内で過ごしたとします。【次男からの成果が報酬】
Jさんは、Iさんと同様に次男のT君に期待していましたが、S君については不本意で、たびたびダメ出しを続けて、S君のやる気が起きるといいなあと思いながら暮らしたとします。【次男からの成果が報酬&教育者としてのあるべき論(自己実現)が報酬】
とまあ、いろいろな訳でしょう。でも、どれを見ても、なにかの代償が必要とされていそうですね。その代償が、親の側の無償の愛に近ければ、事なきを得るのかもしれないという程度です。
実の親でも、そんなところで、これに義父が参戦してくると、もっと凄惨な例が上がって来そうです。
人間というのは、甘くされて、充分何かを得られている状態だと、相手に対して、それ以上の悪さをしようという気が持ち上がって来ない傾向もあります。
たとえば、Kさんは、自分自身が大変かわいがられて育ち、S君の養育についても殊更外側から無理な圧力があるわけでもなく、欲をかかなくても済む立場であるとなると、恩返しのつもりで、無償の愛をS君に渡すということもあるかもしれません。
菱斐のタイプはKさんに近い気がしますが、それは私に一定の資質があったこともあり、親との関係は悪くない面があったのですが(親はヘリ親)、それでも、もし親の期待に応えられないとなればぶっ飛ばされる程度だったと思います。マットレスに簀巻きにされる程度はありましたね(まるで学校のイジメみたいだけど)。おおかた優れたお利口じゃない程度の理由ですが・・・。うちの娘は優れたお利口であるに違いないという前提です。まあ結構たいへんですわ。そういう働きかけも幾らかは役立ったかなだけど、本当に私が頑張った根拠は、それでは無い気がします。
でも、「お口を縫っちゃうぞ(口先の脅し)」なんていう文化は昔は結構多かったですよ。人の成長というのは、そんなに生易しい物では無いのでしょう。
依存の連鎖がある状況だと、たとえば母親はこのS君がひとり息子である場合など、この子から養育のコストに見合う上がりを得られないと、自分の報酬がゼロ以下になる将来を懸念して、安穏とできないかもしれないのです。
適当に例を挙げましたが、上記を見る限り、当たりくじは何割くらい?
ひとつ言えるとすれば、依存の連鎖は危険すぎるため、それを無くするのが良いだろうということは言えそうな気がします。
「代償を望むなんて何なの?」、という残念感はあるでしょうが、しかし、実際砂を噛むような状況を養育者が10年も20年も抱えて、社会でひとり戦うのは大変だろうということでもあります。エネルギーをひたすら漏らすとなると、自己に対する責任が黄色信号にもなる構造が、社会にはあります。全てを投げうってそれに没頭するも、引き換えに、年を取って自分の身を立てられなくなるとすれば、それはそれで無責任なのではないかという問題に当たります。それでしたら喜んで生活保護を差し上げますなんていう自治体を、みなさん見たことがありますか?
そうして、少し前までは、「母親だったら」「娘だったら」「女子度」等言って、差別と奴隷制度を敷いて、女性に割りの悪いことのほとんどを宛がってきた、この日本です。
そして、やり過ぎた。女にもその狡さがバレてしまったのかな。
権力者ぶりっ子による、ズルいシステムは崩壊しました。
関係性の中で、Fair Tradeが得られない場合を、国は考えるのがあるべき姿に思います。健常であってさえも、世を渡るのは、なかなかどうして、大変なのです。
また、実際、記事にあるような女性に対して、DV支援やなにかの支援を施そうとしても、本人の気持ちがブレ過ぎて、支援者としっかりタッグを組み辛いのです。面談中に、和合できるできないという問題もありますが、もし和合できても、恐らくですがその場を離れると、さっきの打ち合わせはどこかに宙ぶらりんとなって実現味が薄れて行くことが多いと思います。
のみならず、DVの場合には支援者側がエネルギーを注入しても、それで得たエネルギーが問題の攻撃者を養うスキームに組み込まれて、中途半端な状況が長期に渡り続いていく、言ってみれば、火の車の事業主に融資をし続けて回収見込みがどんどん希薄になっていく(注入された資金は犠牲になるのみ)、というのに似ています。
そうした現実が、支援者と被支援者の間の論理も関係性も崩して行って、効果が上がり辛くなるというあたりではないかと。
本人が崩壊する以外に、打開策が無いという現実は、割りとあるのかもしれません。
本人の軸が弱すぎるのです。本人に立ち上がらせることが、一番重要で、一番難しいのです。全てを知ったうえでも、アクションしない選ばないという時点で、状況は変わらなくなる、それはあたかも死神に白羽の矢をさされた人が、生きる道を取れなくなるのに似ています。道があっても、取らなくなりますよ。
およそ、本人は辛いわけなので果てしなくいろいろ言うけれど、堂々巡りをするていです。ですので、立ち上がる人を支援することは出来るかもしれないけれど、立ち上がらない人を支援するということには、犠牲の量を増やすに似て疑義があります。それを踏まえれば、むしろ加害者をしばくのが現実的、かと思います。それによって1つの問題は早く片付くでしょうが、当事者のモヤモヤが全て片付くのかは疑問です。ですが、問題を離れた時に、本人が一連の問題を自分のこととして客観視できるようになるのであれば、根本的解決に向かう可能性を孕み、それは有意義かもしれません。
しかし、それにしても、昭和おじさんをはじめ、無能な男性が、女衒度高すぎです。家畜に相応しいだけでなく、悪党ですね。
家畜なんて言ったら、家畜に失礼ではないですか。ただの悪党。
男までが人間であって、女と子どもは人間では無いくらいの意識があるのですかね?女性と子どもにも、侵害してはいけない人権があります。
そういう者が、女児の性を食い物にした事件も、耳にするところです。女・子供を道具にしないと己を保てないのでしょうか?