居なくなったのがあの子でなくて、
僕だったらな。



「こういうのも何ですが…
使えない方が残ってしまいましたな」
「いやいや、しかしあの事件です。
親御さんも息子の道楽テニスどころでは」
「なんにせよ、我々にとっても
手痛いことになった」



コーチ達の話をうっかり聞いてしまって。

それ以来、僕はそう考えるようになった。


あの子――
あいつは僕に出来ないこと、何でも上手だった。
僕にとって未知の事柄。
全てを、惜しみなく与えてくれたのは、あいつ。



僕はやっぱり、あの子に及ばない。



そう、勝手に傷付いている自分がいた。
己の無力と女々しさを呪って、

夜毎に傷を深め続けていたあの頃。

かび臭くなったボール。

うっすら埃を被ったラケット。

使いかけのまま放り出した、

テニススクール行きの定期入れ。



ずーっとずーっと。

そう思い続けていたある日。


そう、あれは初めて詰襟に袖を通した夜。

姿見に写る、制服姿。未知の自分。

ふっとこんな考えが湧いた。


ここに居るのはあの子じゃない。



 『僕、乾貞治なんだ。』

って。



文字にしてたったの9。

それだけ。

それだけで、永いこと全身に掛かっていた負荷が
ふっ…と抜けた。


気構えがびっくりする位、楽になった。

狭まっていた視界が一気に開けた。

二段も三段階も上の視点から、ぐんとクリアーに
周囲を見渡せるようになった。


そんな感じが全部一遍に僕に起こった。


大声にして叫んで、笑い出したいくらい。


そんな感覚が湧き起こったんだ。

それから、僕はあの子の影に怯えながら、

おっかなびっくり、ラケットを再び振り始めた。


あの子の想い出はとてもとても大切で、
思い出す度に痛みを伴う。



今も。これからも。

あの子は僕という未踏の原野、
既に開拓され耕された耕地にどっしりと
居座る広大な堅い巌(いわお)の群。


或いは粘度低く、熱いマグマを常に流し続ける
なだらかにして巨大な楯状火山。



あの子は僕の中で、
善くも悪くも無視なんてできない存在。


僕は実生活、特にテニスで
あの子との想い出を切り開き、
転用してみるよう試みた。


あの子…あいつがいつもそうだったように
自信たっぷりの態度で

「君ならやれる」と口にする。

僕に自信なんて無いんだけれど…



あいつがいつもそうだったように

何でもわかっているような態度をする。
誰かに何かを質問された時、
正確に分かっていることは出来る限り
分かり易く、自信をもって教える。


分かってもらえない時、
その場で調べ切れない時は
一日だけ待ってもらう。

帰ってから猛勉強、検索、チャット。
SNS、HPも見境なく利用。


そして必ず翌日には、
何食わぬ顔で説明をし直す。



寝不足でフラフラだとか、
誰かに泣き付いて教えを乞うたなんて
絶対、顔に出したりしない。


あいつだったら、
そんな格好悪いことしないから。



僕の内なるあの子を取り出し、盗み、奪い、
解剖の限りを尽くす。



聖地を穢すようなこんな真似、
昔なら恐ろしくて出来なかった。


けれど、触れがたかった
あの子に関するあらゆるものが

僕の内部で、再び命を得たように今は感じる。


きっと、これが昇華というものなのだろう。


そうして得た全ては。


僕の、現在の、最高の、仲間達へ。


彼等がいつもの、持前の
ふてぶてしさを保っていてくれるように。

それを受けて、僕が立っていられるように。


全ては、そのために。