今回も前回と同様に、

神秘家のスウェーデンボルグさんの言葉を紹介します。

 

前回のブログでは、

存在よりもたらされている智性と意志、

それらを人間が所有する(知恵の実として食べる)

ことによって起きる苦しみや悲劇を、

スウェーデンボルグさんが説く聖書の創世記に記された

霊的意義を踏まえながら紹介しました。

 

(前回ブログを踏まえた内容のため、読んでいない方は読んでみてください)

 

 

人間を超えた智性と意志を、

人間が有するもの、人間の所有物としたとき、

「私」という人称が生じ、私と相手、

光と闇、優と劣などの区別、二項対立が生じます。

 

私の容姿、言葉、意見、主張が、相手と比べて

正しい、間違っている、優れている、劣っている、

私の我欲(名誉、金銭、情欲)を、

満たしてくれる/くれない、都合の良い/悪い相手。

虫の好く/好かない相手。

 

人間が言葉を語る人称的な言葉の数だけ、

自他の区別による争い、紛糾が生じます。

 

悲劇や苦しみを生じさせないためには、

個々の事象、人称を貫く視点、

言葉が人間を語る視点を持たねばなりません。

 

身退くは天の道なり。

 

人称を退いた非人称、区別を退いた虚焦点、

言ってみれば、

その退いた終点から引返してきて、

人称を眺めるような視点、

すなわち

ロゴスを発語する境地こそ、

自他の区別、正誤、優劣のない、

誰のものでもないからこそ誰のものでもある

普遍性なのであります。

 

ーーーーー

人がロゴスを獲得するのは、

したがって、

その正しさを主張するべき

自分というもの捨てることによってのみだ

 

自分の正しさを主張するための言葉は、

定義により、正しくはあり得ない

言葉をして語らしめることにより、

人は自ずから正しい人になるのである

この事態をもって

「ロゴスに乗りうつられる」と私は呼んでいる

 

いくぶん秘教めいてくるが、

言葉とは本来そういうものだろう。

 

人間が言葉を語っているのではなく、

言葉が人間において語っているのだ

 

言葉はそれ自体が宇宙である

 

混沌を秩序化するのが言葉であるが、

秩序の向こうに混沌を指示するのも言葉である

 

秩序としての言葉(ロゴス)を語った

ソクラテスよりも前の哲人、ヘラクレイトスは、

こんな箴言を残している

 

「私にではなくロゴスに訊いて

万物がひとつであることを知るのが知恵というものだ」

 

池田晶子「人間自身 考えることに終わりなく」p87

ーーーーー

ーーーーー

人称的な自我ならば、

この世の人の数だけ多様なのだから、

主張しあえば紛糾もするだろう。

自身深みから思想とよばれる

普遍性を紡ぎ出して来ることができるのは

人称をもたない「私」だけだ

 

池田晶子「事象そのものへ!」p173

ーーーーー

 

そのような普遍性、

非人称的な天賦の言語中に存在し、

一時的に人称を纏って物理次元に住みついているのが、

我々ではないでしょうか。

 

ーーーーー

二百四十三

霊界における如き言語

各人賦与せられたる所なれども、

そは只彼の内的・智的方面に存するに過ぎず

而して

此言語は、人間にありては、天人の如く、

情動に等似せる言葉となりて出で来らざるが故に、

人はこの天賦の言語中にある知らず

 

スエデンボルグ「天界と地獄」鈴木大拙訳

講談社 文芸文庫 p170-171

ーーーーー

 

その天賦の言語が、

肉体となり、イエス・キリストとして

世に現れたのではないでしょうか。

 

その後、御霊に導かれ、

荒野にてサタンの試みを受けたそうですが、

今回はこのサタンの試みである「誘惑」について

紹介したいと思います。

 

前回ブログで紹介した創世記の霊的意義の中で、

ーーーーーーーーーー

三百十三 p514

この樹の実取りて食うとは、

とを主よりするものとせず、

かくて主の所有にあらずとし、

却て人間よりするもの、人間の所有なりしとて

われに取り入れたるを謂う

鈴木大拙全集 第二十四巻

スエデンボルグ「神慮論」鈴木大拙訳 

ーーーーーーーーーー

と記述がありましたが、

もし主なる存在が悪を所有していなければ、

イエスさまが荒野にて「サタンの試み」を

受ける必要はなかったのではないでしょうか。

 

スウェーデンボルグさんの著書

「新エルサレムとその教説」の「誘惑」の章を紹介しますが、

そこでは「善霊」や「悪霊」など

あまり日常では聞きなれない存在が登場するため、

当該ブログを書いている著者の考察も踏まえながら紹介します。

(ユング心理学に登場する「影」についても触れます)

 

この「善霊」や「悪霊」ですが、

これらの霊については、

別の著書「天界と地獄」の一節でも登場しており、

ここでは、

「善霊」を人の中にある善い記憶や想念、

「悪霊」を人の中にある悪い記憶や想念として、

著述しています。

 

ーーーーー

二百九十二

われらの身には、各々つきそえる善霊凶霊とあり。

この善霊によりて、われらは天界と和合

凶霊によりて地獄と和合

 

是等の精霊は

天界地獄との中間に位せる精霊界にあり、…

是等の精霊、

人間に来るときは、先ず記憶中入り

而して後想念中に入るものとす

 

凶霊記憶及び想念中にある悪しき事物の間に入り

善霊善き事物の裡に入り来る

スエデンボルグ著「天界と地獄」鈴木大拙訳

講談社 文芸文庫 p214

ーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーー

二百九十五 p217

人間付き添える精霊は、情動即ち愛の上より見て、

人間とその性質を同じゅうせり

 

善霊主の人間に付き添わせ給う所なれども、

凶霊は人間の自ら招く所なり

されど此の精霊

帰正し復活し得べき人間にのみ相伴うものにして、

主の与え給う所なり

帰正し復活し難きものに至りては、然らず

 

善霊は出来得る限り

人間をして離れしめんがため彼等に伴えども

彼等直接に和合せるものは、

地獄界と交通せる凶霊なり

彼等はかくして己れと相似たる精霊に伴われおれり

 

p218

彼等もし自己を愛し、利益を愛し、

報冤(ほうえん:恨み辛み)を愛し、姦淫を愛せば

彼等亦是の種の悪念ととめる精霊と倶なり

此の如き精霊は実に是等の

悪しき情動中その住処を定むるものと云い得べし

 

人もし善霊によりて悪を制し得ざるときは

是等の凶霊の扇動する所となるべく

而して此情動の所主となるに比例して、

凶霊は此人にすがりて退かざるべし

 

かくて悪人は地獄界と和合し善人天界と和合

 

スエデンボルグ著「天界と地獄」鈴木大拙訳

講談社 文芸文庫 p217-218

ーーーーー

 

スピリチュアルな視点から見れば、

その人間と気質が同じであるような善霊は守護霊、

また、自らの小我な欲、未熟さによって、

「此人にすがりて退かざるべし」という記述から、

悪霊は人間に取り憑いてくるような憑依霊、

と私は解釈しました。

 

上述の内容を踏まえながら、

以下「誘惑」の章に進んでいきます。

 

ーーーーーーーーーー

誘惑 

 

百八十七

将(まさ)に新生を享けんとするもののみ霊的誘惑を受く

何となれば(なぜなら)、

霊的誘惑とは、

悪霊善(意志)と真(智性)とに住するものに対して、

その心懊悩を起さしむるの義なればなり

 

悪霊もし

此の如き人々の中に存する諸悪を誘い出すときは、

此に苦悶の感覚あり、是れ誘惑の所属なり

此人その起源を知らざるが故に、

その何れより来るかを知らず。

 

ーーーーー

百八十八

何となれば、

には各々善霊悪霊とありて、之に伴えばなり、

悪霊はその人の悪に居り善霊はその人の善に居れり

 

悪霊近づくときは、その悪を引き出し

これに反して善霊はその善を引き出す

故に此に、衝突あり、争闘あり

これよりして内分苦悶を感ず、是れ誘惑なり

 

これによりて、

誘惑は、天界よりせず、地獄よりするを明らむべし。

 

是れ亦、

何人をも誘惑し給わずと云う教会の信条と相称えり

 

ーーーーー

百九十

誘惑のうちには、

勝たんとし、勝たんとし、

互に、その力を争う

 

常に人の主たらんと願う悪自然人即ち外人におり、

霊人即ち内人におれり

 

悪もし行わるれば、自然人、主となり

もし勝てば、霊人、即ちとなる

 

鈴木大拙「スエデンボルグ」講談社文芸文庫 p166

ーーーーー

 

人(肉体)の主たらんと願う悪(人称)と、

精神性、霊魂の主たらんと願う善(非人称)との葛藤、せめぎ合い、

上述の衝突こそ、小我である人称を超えた、

大我である非人称へと至るための試練ではないでしょうか。

 

自他の区別を付けずに生きること、

知恵の実を食べて原罪を背負う人称的な自我として、

滅びに至る門をくぐって生きるのではなく、

非人称的な、万物がひとつであるロゴスの視点を生きる。

 

このような立ち止まり内省して書くことによって、

日常の現象から一歩退いて視ることは容易でありますが、

人称を退いた非人称の視点を日常で生きることは

なんと難しいものでしょう。生命に至る門は狭き門であります。

 

当該ブログを書いている著者自身、

仕事や人間関係などの日常生活において、

内界の非人称性、普遍性を喪失させる地上の喧騒、

または相容れないものとして忌み嫌う悪想念、

雑音や雑念が強烈に自他の区別を付けてくることに、

幻滅しては内省し、

次は損なわないように努める、努力する、

その日々の繰り返しです。毎日が修行です。

 

ーーーーーーーーーー

 

苦しみがなくならないようにとか、

苦しみが少なくなるようにとか求めないこと

そうではなく、

苦しみによって損なわれないようにと求めること

 

シモーヌ・ヴェイユ

ーーーーーーーーーー

 

外界の事象によって、または悪想念によって、

内界を損なわせようとする人の主たらんと願う悪、

心理学者であるユングさんの言葉を借りれば、

生きられなかったもう一人の自分である「影」

と言葉を置き換えてもよいのではないでしょうか。

 

ーーーーーーーーーー

影の内容は、簡単にいって、

その個人の意識によって生きられなかった半面

その個人が認容しがたいとしている心的内容であり

それは文字どおり、

そのひとの暗い影の部分をなしている。

 

われわれの意識は一種の価値体系をもっており、

その体系と相容れぬもの

無意識化に抑圧しようとする傾向がある。

実際生きてゆくうえにおいて、一般に、

ひとびとは他人を傷つけるとか、極端にひとをだますとか、

下品なことを公衆の面前で話すとか、

のようなことはしないでいる。

 

このような一般に社会で悪といわれていることは、

影の大きい部分でもある。…

 

ユング心理学入門 河合隼雄 河合俊雄[編]

<心理療法>コレクションⅠ 岩波現代文庫 p86-87

ーーーーーーーーーー

 

その人にとって認容し難い、相容れぬものとして、

無意識化に抑圧している存在としての影。

 

抑圧している心的内容は

人によって様々であると思いますが、

ブログの著者にとって

忌み嫌い認容し難いものとしているものは、

道義、倫理性を踏みにじる行為、卑しさ、下劣さ、

または

知恵の実を食べることにより生じる人称、

その人称によって生じた区別による優越感や劣等感、

慢心、自惚れ、思い上がりなどです。

 

赤裸々に述べますと、上述の心的内容が

仕事や人間関係など日常生活の浮き沈みの中で、

不意に現れ、思考を裏切り幻滅させるような印象です。

 

「死を免れるより、下劣を免れる方がずっと難しい」

と語るソクラテスの言葉が、

「難しい」と形容するだけでは足りない程の困難さ

を有しているような印象であります。

 

ーーーーーーーーーー

 

ソクラテス

まぬかれる工夫は、たくさんある

いや、むずかしいのは、そういうことではないでしょう

諸君、まぬかれるということではないでしょう。

むしろ

下劣まぬかれるほうが、ずっとむずかしい

プラトーン「ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン」

田中美知太郎 池田美穂 訳 新潮文庫 p75

ーーーーーーーーーー

 

人称を超えた普遍的な存在へ至ろうと、

努めようとするればする程、

時々刻々に、影は伸びてゆき破壊性を増してくるような、

そういった印象ではないでしょうか。

 

ーーーーーーーーーー

光があるところには影がなくてはならないし、

影のあるところには光がなくてはならない

のないはなく、のないはない。

カール・ユングはある本の中でこのようなことを語っている。

 

は、我々人間前向きな存在であるのと同じくらい、

よこしまな存在である

 

我々善良で優れた完璧な人間になろうと努めれば努めるほど

影は暗くよこしまで破壊的になろうとする意志を明確にしていく

 

人が自らの容量を超えて完全になろうとするとき

地獄に降りて悪魔となる

なぜならば

この自然界において、

人が自分自身以上のものになることは、

自分自身以下のものになるのと同じくらい

罪深いことであるからだ。』…」

 

村上春樹「1Q84 BOOK2 後編」新潮文庫 p15-16

ーーーーーーーーーー

 

今思い描いた想念、

表象や意志は本当に私が思い描いたのかと、

急に不意打ちをかける、裏切るような思考へと至らせる、

そういった印象ではないでしょうか。

 

私事ですが、

当該ブログ記事の構想を練っているその日の夜に、

普遍的な影と表現してもいいような悪夢を見ました。

 

一介の表現者として

夢の内容を赤裸々に述べる選択も可能ですが、

詳細はここでは控えます。

(先ほど述べた忌み嫌い避けてきた内容が形となって

一斉に押し寄せて眼前に突きつけられるような、

人間の欲、驕りの極みのような夢でした)

 

ユングさんが述べるような、

その人個人が生活の中で抑圧している向き合うべき内容

(内なる異性像であるアニマ/アニムスなど)ではなく、

人類に共通する普遍的な影そのものではないか、

と思うような夢でした。

 

ーーーーーーーーーー

人間の心の奥深く存在する普遍的な影は、

人々がそれを考え及ばぬこととして

いかに否定しようとも、

突如として人間をとらえ暴威をふるうのである

 

普遍的な影人間の心存在することを、

明確に認識することは難しいことである。

しかも、

それがほかならぬ自分の心の中にあること

知るのはなおさら難しいことである。

 

河合隼雄「影の現象学」講談社学術文庫 p130-131

ーーーーーーーーーー

 

(余談ですが)先日、

「プロフェッショナル 仕事の流儀 ジブリと宮崎駿の2399日」を

視聴していた中、

高畑勲氏の葬儀後に宮崎さんが語った言葉が印象的でした。

 

宮崎駿さん

「人間の感情って複雑でさ

ただ悲しいってだけじゃないんだよね

残酷な勝利感とかさ 色んなもんがあるんだよ」

 

「残酷な勝利感」、

まさに人間の心に存在する

影の自覚を述べた言葉なのではないでしょうか。

 

また、

イエスさまの使途であるパウロの言葉も、

ユングさんの奥さんであるエンマさんも述べていますが、

人間の影について述べたものではないでしょうか。

ーーーーーーーーーー

 

すなわち、わたしの欲している善しないで、

欲していない悪は、これを行っている

 

ローマ人への手紙 7章 19節

ーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーー

私たちはときおり自分には

まったく異質に思える状態や激情におそわれたり

自分には無縁の衝動や感情や思考や心像

心に思い浮かべたりする。

 

しかも、

このような激情は私たち自身の考えや意図とは

鋭く対立することが多いので、

それはそれ自体で成り立っている、

私たちとはちがった存在が姿をあらわしたのだ

と思うほどである。

 

パウロが≪私の欲する善を私は行わず、

 私の欲しない悪を私は行う(Paulus,Röm.7,19.)≫

というとき、まったく同じ体験が語られている。

 

つまり、私たちの中で

ときおり私たちのあずかり知らぬ意志があらわれて

私たち自身が望んだり是認したりするところ

反対を行うという体験である。…

 

エンマ・ユング「内なる異性 アニムスとアニマ」

笠原 嘉  吉本千鶴子 = 訳 鳴海社 p9-10

ーーーーーーーーーー

 

このように(私的解釈ですが)、

スウェーデンボルグさんが述べる人の主たらんと願う「悪霊」は、

心理学者であるユングさんと奥さんのエンマさんが述べる「影」のような、

その人が認容し難い心的内容を不意に引き出してきて、

鋭く対立する情動や思考、イメージを突き付けて、

心の苦悶を感じさせる存在なのではないかと、

私は捉えました。

 

しかし、誘惑の章の一節を見ると、

は何人をも誘惑し給わず」としており、

主なる存在は、知恵の実を食べて、

大地と結ばれた人の主たらんと、人の主であれ

とは願ってはいないのではないでしょうか。

 

人称を纏った人間として地上を歩む限り、

影は付き添ってくるものであります。

 

その人間とは、何か

 

人称を問う非人称、

その非人称から投げかけられる問いに

気付かなければなりません。

 

見開いて、透視するため非人称の視点、

その醒めた視点は、

人称によって生じる無意識、闇(影)をも透過した、

神秘なる明晰な視点であります。

 

ーーーーーーーーーー

醒めているとは、

もろもろの自己愛が出てくる源としての

「自分」というものが、絶対不動で越え難いものだ

とは少しも信じていないということである

 

としたなら

そのような「自分」は

「自分」以外さまざまなこころのかたちをも

受容できるだけの広がりと柔軟性をもっているだろう

 

ユングの「無意識」とは、そういう場所のことである

しかし何のことはない、

それを「意識」といっても実は同じことだったのだ。

意識できないものは永遠に意識できないままなのだから、

全ては、全てに対して開かれた非人称の意識である

と言った方が、むしろ正確だったのだ

 

暗闇照らす光が意識であるならば、

照らし出された闇実は意識自身なのだ

 

この身を隠しおおせる物陰のひとつさえ

見当たらない真昼の砂漠のようなこの場所

「神秘主義」とよぶのなら、

神秘とは何と明晰なものなのだろう

 

池田晶子「事象そのものへ!」p121

ーーーーーーーーーー

 

存在から投げかけられた問いにより

導かれる精神は、人称を超え地上を超えて、

全方位底抜けの非人称の視点へと飛翔します。

 

人称的な闇をも照らし出す

外側のない非ー空間的な神秘に満ちたそこには、

地上の歩みによって生ずる

喧騒や影は存在しないのではないでしょうか。

 

ーーーーーーーーーー

 

地上問いたいためにこそ離陸してしまう精神は、

自由なのであって病気ではない

病気になるためには障害が必要である。

しかし

我欲に基づく地上の現象透過してしまう無我の精神に、

障害物存在しない

 

池田晶子「事象そのものへ!」p118-119

ーーーーーーーーーー

 

この透過した無私なる自覚の持続、

保ち続けることが大事なのであります。

と同時に、

とても難しいものでもあります。

 

ーーーーーーーーーー

 

のほうで、

「増上慢」もしくは「未徹在」という言い方があります。

小僧の「生悟り」戒める言葉ですが、

「気づく」ことはじつは易しく、それを「保つ

もしくは為す」ことのほうがよほど難しいのだ、

といった含みもありましょう。

 

「一瞬にして全てが見えた」とか、

わかった、悟った、解脱した、と「思う」瞬間は、

じつはそんなに珍しいことではないのです。

そうではなく、

「わかった」そのこと絶対としてのその質を、

この相対界、この人生において

生きること、生き通すことの、いかに困難であることか

「悟後の修行」が大事です

 

「努力」という、

古臭いような言葉で私が言おうとしているのも、

そのことです

 

人は、一度わかったこと忘れます

意識的に、自覚的に、努めない限り、わかったこと忘れてしまうのです

(対話相手の死刑囚:陸田氏に対して)独房の中といえど、

そこも人の世ですから、大なり小なり雑音は届くでしょう。

そのような雑音を雑念として取り込まずに、

自分を維持していけるかどうかが、分かれ目です

 

池田晶子・陸田真志 共著

「死と生きる 獄中哲学対話」 p116

ーーーーーーーーーー

 

人称を伴わない姿勢の持続、

机上の空論、絵空事として看過することなく、

この非人称性の姿勢を実地に生きることの難しさは、

とても苦しいものがあります。

 

知恵の実を食べたことによって生じた

原罪に対する代償は少なくないのでしょう。

 

この姿勢を只々努力し続けてゆくこと、

より善く、より磨かれた魂となるために。

 

ーーーーー

ところで、努力とは、

善くなるために為されるものであって

悪くなるために努力する人はいない。

悪くなるために為されるのは、

努力ではなく堕落と言われる

堕落努力は伴っていない。

だから、堕落した人は悪い人なのである

 

そして、

堕落した人のことを不幸な人我々は言う

したがって、

善くなる努力しない人は、

幸福ではなくて不幸なのである。

 

幸福とは、善い魂のことである

善い魂であるということが、

幸福であるというそのことなのである

善くなるために努力している魂もまた、幸福である

 

その努力幸福になるための努力であるということを、

知っているからである

 

善い魂は、

いかなる外的な悪によっても

不幸になることがない

そのことによって幸福なのである

 

ところで、努力とは、必ず苦しいものである。

楽な努力、そんなものはない

楽なことは、たんに楽なのであって、

そこに努力は伴っていない

 

善くなるための努力は、必ず苦しいものである

しかし、

善くなることは幸福になることなのだから、

これをつづめて言うと

 

善く苦しむ

苦しみは喜びである

 

幸福とは、これである

そして、これ以外の何かではあり得ない。

 

アーメン

と、思わずくくりたくなるほど、

牧師の説教によく似ている。

しかし、

論理だけで考えてもこうなるのだから、

真に宗教的な人々の直観的な心には、

私は素直に頭(こうべ)を垂れる気持ちになる。

 

池田晶子「残酷人生論」p221-222

ーーーーー

 

ブログの著者自身、

日々の仕事や日常生活、人間関係の浮き沈みの中で、

自他の区別を不意に付けようとする影の存在に幻滅し、

次そうならないためには、と自省自反して、

相手の人となりや本質を心の眼で見る、

相手も受肉したロゴスであることを意識して接するなど、

その日々の繰り返しです。

 

それでも少しずつではありますが、

自他の区別によって生じる他人への嫌悪や、

己れの悪態などが減ってゆき、

自分と他人との間に生じていた境界線が

徐々に薄らいでゆきました。

 

また、「他人は自分の鏡である」と言いますが、

線引きしていた相手の振る舞いの中に、

己れの至らない点、向き合うべき点などが現れていて、

そこに気付き学んでいく態度を取る姿勢も、

日々形成されつつあります。

 

そのような非人称的な心の視点に努めていると、

霊能者である月夜見さんや江原啓之さんが述べていますが、

高次の存在からサインや気付きが与えられていることを、

確かに感じ取ることが出来きます。

絵空事ではないですよ。本当のことです。

 

上述の様に、

自省自反することによって魂を磨き、

霊的感性を磨くことによって、

ブログの著者の場合は感じとれるようになりました。

 

ーーーーーーーーーー

...

今(現世)の自分を見つめるために、

他のエネルギーとぶつかり

自分に気づくきっかけを与えられ、悩みながら、

人は体験的に「智慧」を獲得していきます

 

その上で、

苦しみや悲しみが溢れる物理次元のなかで、

笑って過ごすことが増えるよう工夫していくこと

悟りです。

 

悟りを得ると、高次の意識の次元の存在を、

心の目で感じることができます

 

高次の世界ではすべてが繋がっています

この感覚を意識できるようになると、

自分や他人や、環境のあいだ境界線がないこと

心から感じるようになります

 

「悟る」ことができたら

この世の苦しみかなり軽減されます

 

他人の幸せ、綺麗事とか理性ではなく「心から」

自分のことのように願うことができたら、

それだけでその人の心は平穏でしょう

 

この世で生じる苦しみは、苦しみではなくなります

 

月夜見著「終わりなき魂を生きる」 p84-85

ーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーー

守護霊との絆を意識しながら生きる人には、

必ずそれとわかるサインがあります

ひとり暮らしのなかで、

ふいに人が訪れたり、誰かの援助があったり、

いろいろな形で、

「ありがたいな」と思うようなことがあるはずです

ですから現世で生きる人にとって大切なのは、

感性としての気づきです

 

江原啓之「守護霊」p190-191

ーーーーーーーーーー

 

より善く、より磨かれた魂となるために、苦しむ。

また、(ブログの著者にとっては)まだまだ難しいことではありますが、

その苦しみを笑って乗り越えられる様に

うまく工夫して喜びとすることも、

今後取り入れてゆければと思っております。

 

ーーーーーーーーーー

ユーモア、ペーソスやアイロニーは、

不公平や苦しいことの多いこの世間を渡っていくために

発達してきた人間の特性ではないかと私は考えてきた。

 

それは間違っていないかもしれないが、

これらは慰めとして機能しているだけではない

慰めであると同時に、

ほんの一瞬ではあっても、

存在の本質を認識させてくれてもいるのだ

 

人間ははるかに広大な永遠の存在であって、

この世の苦しみは決してその本質を損ねることはない

という真理を表しているに違いない

 

笑いやアイロニーは、

われわれはこの世界の旅人であって

囚人ではないという何よりの証左なのだろう

 

エベン・アレグザンダー「プルーフ・オブ・ヘブン」

ハヤカワ ノンフィクション文庫 p211

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ーーーーーーーーーー

 

は行い難い、は施しにくい、節操は守り安からぬ、

義の為めに命を捨てるのは惜しい。

これ等を敢てするのは何人に取っても苦痛である。

 

その苦痛を冒す為めには、

苦痛に打ち勝つだけの愉快どこかに潜んでおらねばならん

 

夏目漱石「草枕」新潮文庫 p154-155

ーーーーーーーーーー

 

上述の様に、

非人称としての視点で生きることで、

知恵の実を食べずに努めることで、

人称的な小我によって生じたイバラ(偽)とアザミ(悪)、苦しみが、

(人生という道の途中ではありますが)消失してゆきつつあります。

 

また、

大我である非人称の視点を生きることにより、

もたらされる智性と意志、生命の樹である存在によって

生かされていることへの自覚と感謝の念が、

まざまざと感じられます。

 

ーーーーーーーーーー

百九十四

 

誘惑は、

をしてに対し、をしてに対して

力を得せしむるに在り

また、を決定して之を善と和合せしむるに在り

而してこれと同時に

悪と悪よりする偽とを滅尽するに在り

 

誘惑はまた、内的霊人を開き

自然人をしてその節度に従わしむるの用あり

これと同時に、

自愛と世間愛(自智)とを破壊して

これよりする諸慾制約するの用在り

 

此の如き諸事物成就するとき、人は覚照を得

真と善とは如何偽と悪とは如何と云うこと覚知

これよりして人は分別識智慧とを有し、

此二つは以来日日に増長すべし

 

鈴木大拙「スエデンボルグ」講談社文芸文庫 p168

ーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーー

 

(昌清霊さん:江原啓之さんの指導霊)

すべての小我捨て去ること

すべてに感謝、賛美し生きれば

災い何ひとつ無い。何がある?無いぞ

すべてに感謝、すべてを賛美し、

”あるもの”をありがたくいただいて生きていれば、無い

 

大我であれば、起きることは何ひとつ無い

それ現世(うつしよ:この世)の事象だけにあらず。

心の迷いも悩みも、すべてじゃ

 

ただただ感謝し、賛美し

そしてありがたき学びとしていただいてゆけば

何ひとつ悩み無いはずじゃ

 

この現世にある者たちは、

何ひとつ感謝も無ければ賛美も無い。

”あるもの”に対して不平不満を作り上げ

いわば、無きものもあるように作り上げる

 

すべては欲、我欲、小我ということじゃ

自らが自らの首を絞めている、というだけにござる。

 

江原啓之「この世が危ない!」集英社 p74-75

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知恵の実を食べることにより作り上げた区別という幻想を、

与えられた智性によって考え、

区別により生じる人称を消失、または超えてゆく。

 

その非人称性への倫理的な意志の欲求や、

生き方の構えの根源たるは、投げかけられた問いであります。

この受動「投げかけられる」側に対する、

能動の「投げかける」側の存在に、捉えられたことにあります。

 

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忘るるものは贅沢になる。…

 

贅沢は高じて大胆となる

 

大胆道義蹂躙して大自在に跳梁する

巫山戯る。騒ぐ。欺く。嘲弄する。

馬鹿にする。踏む。蹴る。…

 

夏目漱石「虞美人草」新潮文庫 p453-454

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死とは何か、

与えられた限りある一回性の生、

それ故に意志し欲求される道義、

その基軸たる死を忘れるとき、

人は非行に走るのではないのか。

 

何よりもまず、生きて死ぬとはどういうことか、

その問いを投げかけている存在、

その存在の神秘、不思議さに気付き、考えてゆくこと。

 

生存欲に淘汰されることなく、

世の流行や人称的な小我の如く

一時的に明滅しては過ぎ去ってしまうことなく、

連綿と受け継がれてきた古典、普遍的な思想の根源も、

ここにあります。

 

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だから、こういう事についてまず肝心なことは、

いつでも自分が本当に感じたことや、

真実心を動かされたことから出発して、

その意味を考えてゆくことだと思う

 

君が何かしみじみと感じたり

心の底から思ったりしたことを、少しもゴマ化してはいけない

そうして、

どういう場合に、どういう事について、どんな感じを受けたか

それをよく考えて見るのだ

 

そうすると、

ある時、ある場所で、君がある感動を受けたという、

繰りかえすことのない、ただ一度の経験の中に、

その時だけとどまらない意味のあることがわかって来る

それが、君の思想というもの

 

これは、むずかしい言葉でいいかえると、

常に自分の体験から出発して正直に考えてゆけ

ということなんだが、このことは、コペル君

本当に大切なことなんだよ

ここゴマ化しがあったら、どんなに偉そうなことを考えたり、

言ったりしても、みんな嘘になってしまうんだ

 

吉野源三郎「君たちはどう生きるか」 岩波文庫 p53-54

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思想は思考に先立たず

思考は感覚に先立たない

そして感覚は、

私たちの一切の経験の基底に存在しているもの

 

池田晶子「事象そのものへ!」p24

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非人称性、普遍性としての思想と処生を

一分の隙なく合致させて生きること。

 

これぞ真なる形而上学(メタフィジカ)。

 

人称を超えた、もたらされる智性と意志を、

内在するこの神秘を、手放さずに生きること、

決してこの神秘を、己れが有するもの

として人称を生じさせ自他の区別を付けて、

自らを誇り他人を侮ることなく、

また自らを卑下して他人を憎むことなく、

すなわち知恵の実を食べずに生きること。

 

考えることも、意志し、言説し、行動することも、

その行為振舞い一挙手一投足悉く己れを超えている、

という存在の神秘を胸に、現世を生きる。

 

この存在の神秘を信じて、魂の旅人として、

人生を歩むことが大切ではないでしょうか。

 

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大事なのは、神秘と感じるその感覚を、

最期すなわち

あり得ない死のそのときまで手放さないこと

決して何かの説明にすり替えて、

わかった気ならないことだ

 

人生が存在するということの神秘は、

どこまでも味わわれるべきであって、

説明してしまうにはあまりにも惜しい。

したがって、

いまやこう言い換えてもいい

 

ただ真実を知ることをのみ希うのなら

 

たんに、信じよ

 

池田晶子「残酷人生論」 p240

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百九十五

 

人、誘惑に在るときは、のみがために戦い給う

 

人もし、主のみ、わがために戦いて、

わがために勝ち給うこと信ぜずば

此誘惑は

外的に過ぎずして、その人のために何等の効あらず

 

鈴木大拙「スエデンボルグ」講談社文芸文庫 p168

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するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け

『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。

 

マタイによる福音書 第4章 10節

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アダムとイブの原罪ゆえに追放されてしまった

生命の樹に至る途、エデンの園は、

知恵の実を食べずにこの世を生き抜く者にのみ、

展かれているものであると、私は考えます。

 

最後まで読んでいただき、

ありがとうございました。