お久しぶりです。私は何とか元気に生きています。にゃんも元気ですv(´∀`*v)ピース
ずっと、最後のブログを書いてからも変わらず集会に行っていました。私なりの信仰をもっていればそれでいいと思いながら。しかしそれは時に落ち込み、罪悪感にさいなまされ、記事に苛立ち・・を繰り返す日々。結構精神的に参ってしまう時もありバランスを取ることが難しく、自分で選んだ道とはいえこのような気持ちで集会に行くことがどれ程大変な事かを思い知らされる毎日でした。
そんな中ある方と話していて、私の根本的な概念は覆されました。
私の根本的概念とは、統治体のみを悪者にし、聖書は神が書いたものでエホバはいると思っているということです。これは覚醒したと言えないんじゃないかと。
まず聖書自体が神によって書かれたということを信じている時点で結局そこにふりまわされているのではないかと。
例えば聖書に書いてあることで現実と捉えていること。宇宙論争。人間に食べてはならない木の実を与えて食べたら死ぬとか悪魔が唆し裏切ったとか。それ自体を信じていたからこそ自由意志とは?とか神の愛がわからん、とかなってしまったけど、これ自体が単なる架空の物語としたら?
宇宙には何億の星があって、太陽の何万倍の大きさの星もあって、その規模から見た塵のような地球の中のこれまた塵にしか過ぎない人間に本当に現実にそんなことが起こったのか?と客観的に考えてみると何とも非現実的な話に思えたのです。
ノアの箱舟、イスラエル人の救出。数々の奇跡。イエスキリストの臨在。神はそうやって自分の民を救ってきた。JWはそれと現代の私たちを無理くり当てはめようとしているけどその聖書の話自体が神話だとしたら。
もちろんエホバもサタンの存在も現実ではなくなる。聖書はドキュメンタリーではなく宗教書のうちの一つ。それが何だか腑に落ちたんです。
私はきっと、統治体を批判していることを自分が聖書も神も信じている、ということによって正当化していたんだと思います。でもそれでは結局のところ一緒で。聖書の中に書かれている神様は、特に旧約ではほんとに残酷だし、ひどい。でもそれがエホバだと信じることによって恐れが生じる。統治体の教えとは関係なく。まずそこを考え直さないといけないんだと気づかされました。
聖書は空想のお話し。神などいない。書いていて正直まだ胸がざわつきますが、そこからの脱却がほんとの意味での覚醒なんだなと思いました。そう思ってからの集会での話や塔記事なんかは、なんて馬鹿げているんだろう・・と。腹が立つというより滑稽に思えます。一歩ひいてみれるというか、自分を責めるという要素が無くなりました。自由でいていいんだと。何が悪いとか何が正しいとか決めつける事もない。善悪の二択しか無いエホバという神の考えで判断していたけれど、善の中の悪や悪の中の善に目を向けてもいいんじゃないかなって。
あと最近読んだ本でNot the End of the World(世界は終わらない)という本があるんですけど、これも私にとってはいい本でした。ノアの大洪水がテーマになっているんですが、聖書には出てこない人物が加わり、答えは一つではないと思わせてくれるような作品で。今まで凝り固まっていた思考が柔らかくなるというか。わたしは何だか未来が開けた気がしました。
ちょうど一年前に「騙し絵」というブログを書きました。あの時は統治体のことがイルカ見えた瞬間でした。でもそれを踏まえた上で別の視点で見る絵を見つけたいと思っていましたがやっと見つけられた気がします。ほんとの意味でのエホバからの覚醒。
今は集会には行かないといけないかもしれないけど、逆に気負わずに行ける気がします。父の言っていた聞き流す、とはそういうことだったのかもしれないですね。てゆーか、父はそもそも信じてないのかも( ;゚─゚)シンノカクセイシャ・・
最後のブログで、心境に変化があれば書きますと言っていたのでちょっと書いてみました(*´ω`*)ゞエヘ