この間、仕事場にきたお客さん。なんか見たことあるな・・と記入していただいた名前を見て思い出した。
私が高校生の頃に再訪問していた女性だった。
月に二回くらい、楽園のブロシュアーから少しずつ質問と答えで討議していた。
その時、その女性は幼い二人のお子さんがいて忙しくされていたけれど、私が伺ったときは快く話を聞いてくれてたな・・。
その内引っ越されることになって、それっきり。でも結構長い間訪問していたし、よく覚えていた。もう20年以上前のことなのに。
なんか、声をかけてみたんです。
「○○さんですよね、私高校の頃聖書の話をしに訪問していた・・」
と言って名札をみせると、覚えていてくださってました。
ご主人の転勤で転々とし、またこっちに戻ってきたとのこと。あの頃まだ保育園だった子ももうハタチを超えているとかΣ(゚д゚;)(そりゃそうだ)
がんばっていたあの頃。それなりの充実感はあった。なにより奉仕でエホバについて語ることが好きだったし、聖句でも読めたらうれしくて、エホバが祝福してくださった。なんて思っていました。
開拓も、たしかにそういう風潮はありましたが、捉えることになんの躊躇もなく、みんなとワイワイ楽しく奉仕したな。
なのになんでこんな風になってしまったんだろう。
エホバについて語りたい。
エホバの愛がわからない。
この相反する感情。
開拓者精神をもってすべての時間をエホバに捧げることの充実感。
自己犠牲によって奪われる自分の時間。疲れ果てる体。
どっちも当時のわたしの中に沸き起こる感情だった。
聖書の中に書かれているエホバもそう。
愛情深く涙を皮袋に入れてくださる神。雛をかばう親鳥のように翼を広げてくださる神。
自分に全き専心を要求する神。私を憎むものについては処罰を三代四代に及ぼす神。
どっちもエホバ。
どっちかひとつだけになれば楽なのに・・