ご無沙汰しています( ̄ー☆
最近もちょこちょこ色んな事はありましたが、自分の中で消化しつつ何とかクリアしていたのでブログを書くという作業をせずに何とかやっていました。いきなりの強引な牧羊訪問で見当違いな助言をされてもね。広いココロで受け止めていましたよ( ゚∀゚ )ハァーハッハッ!!
最近の塔記事も結構あ、そうなんだー。っていう内容だったし。
前記事でも触れたように、JWの中で自尊心を保てない私にピッタリの言葉があったり。(自分は何の報いにも値しない、とさえ感じても神は私たちの心より大きくすべての事を知っておられるとか当人にとってはごくわずかな奉仕に思えてもそれを貴重なものと見てくださる、とかね)
単純な私は、一瞬やっぱりエホバは・・なんて思ってしまうんですよね。でもそれ自体が組織のやり方なんでしょうね。アメとムチの使い分けとでもいうか・・。今朝のみそかさんのブログを見て気づきました。
先週の記事では自由意志の事が書かれてたんですよね。
で、例えばパウロはコリントのクリスチャンたちが売られる前に偶像に捧げれた肉を食べるか食べないか・・という論議が起こった時に食物によって神との関係が強まるわけではない事を述べて、より敏感な良心を持つ人たちに対しそうした肉を食べる事を選ぶ人たちを裁かないように言った。という記述から、より小さな事柄においても個人的な決定を下す他の人の権利を尊重すべきだ、ってな事がかかれていてそうだよなー、とは思ったんですよ。あくまでも会衆内のいざこざで・・と私は思ったんですけど、それでもなんか腑に落ちなくて・・。
そういえばトウチタイは崇拝に全く関係のないことで若者の将来の事を決めつけていますよね。
高等教育を否定したり、全時間で働くことを否定し開拓の道へ・・半ば脅迫めいた形で。
大学に行きたい。といった個人の権利はどうなるんでしょうね。偶像崇拝や淫行をするわけでもないのに。会衆の人たち・・というより組織ぐるみでそういう人たちを裁いてますよね。
そして中野っちさんのコメントを見てますます納得しました。WTの教えは二重構造になっている、と。こういう記事は外部から批判された時に備えてのものだ、と。
(みそかさん、中野っちさん勝手に引用すみません)
例の公式サイトの排斥の見解と同じですよね。
結局自由意志と言ってはいても、実質はその人の決定を尊重なんてしないんですよ。考える自由と言ってもカレブ君が母親によく言われてるように、エホバはどう思う?じゃあどうしたいと思う?っていう思考。自分はこうだからこうしたい。という考えは許されない。でも私たちは信者の意志を尊重してますよ、アピール。
だから最初に書いた価値があるうんぬん・・っていう言葉もまた違う記事ではもっと自己犠牲できるやろー、開拓しろー、まだまだ足りないぞー!って言われてビェ──・゚・(。>д<。)・゚・──ン!!てなって、でまた少しの事でも神は喜んでくださるんだよーヨシヨシ( ,,´・ω・)ノ"(´っω・`。)てなって・・
エンドレス( ゚∀゚; )タラー
ただただ疲れるわ・・。
組織の目先の言葉に振り回されず、きちんと自分で考えないといけないんだな。と改めて思いました。
おまけ![]()
ピグで家猫かふぇっていうとこができてて、ちょっと無駄遣いしてお家を猫カフェ風にして、着替えてみました( ´艸`)そして猫ちゃんも飼っちゃった♪よかったらピグの部屋をのぞいてみてください(*^o^*)
にゃんきゃっちっていうゲームもおもしろいですね^^単純なんだけど猫ちゃんがかわいい![]()
