オーストラリアに来て、自然の中で暮らしてると、
ACが出なくなったし、悲しいことを考えなくなった。
マイナス思考なんてものや、うじうじ、あーなったらこうで、なんてことを考えない。
スパっと。ありのままになってきた。
とっても気もちがいい。
今日は、父親の隣で眠る夢などみた。
怖いとか何もなくて、ただ、親として慕っていた父親のとなりで寝る、それだけだった。
数日前うどんを手打ちでつくったとき、真っ先に写メで報告したい相手は讃岐にいる父親だった。
そういう素直な感情には、まっすぐ従っていい気がして連絡できた。
ここにきて、子どもの頃、しかも思春期より前の、無邪気だった頃に戻ったような感覚。
私はたぶん、思春期以来、頭で考えることに、かなり力を入れてきたんだと思う。
自分の中で仮設とストーリーをつくって、悲劇のヒロインな自分の悲惨なストーリーをコツコツとためてきた。
悲しみの湖の中で悲しんでる自分は、超かわいそう、泣いちゃう。
そしてそれはある意味居心地がいい。ずっとそこに浸っていられるから。
「あぁ、なんてかわいそうなんだ。なんてひどいんだ…」ってね。
だけどその渦からは、HAPPYは訪れない。
いやむしろ、その渦の中にいる自分にとっちゃぁ、HAPPYはもはや、悲しんでいる時間だ。
だからもう、悲しみが慢性的に自分を幸せにしてくれる薬になってしまってる。
悲しみ中毒。Addiction of Sadness.
あー、まさにいま母親はそういう状態で。
だから抜け出そうとしない。できない。本人にとっちゃぁ悲しみが、一番安心できる幸せの場所なのだから。
とはいえ悲しいのだから、辛いのだから、結果的に不幸なのだ。
でも抜け出し方がわからなくて、それはものすごく大変なことのように思える。
だから抜け出せない。また悲しみの湖に逃げて、またなんとか安心できる場所で浸ってしまう。
これは、DVとか、虐待を受ける方の感じ方とも、すごく似てると思う。
暴力は受けたくない。でも、少しでも受け入れてほしいから、もっともっと近づいてしまう。
痛いけど、暴力を受ける、その服従関係だけの世界の中で、もう既に暴力のある関係性が心地よいものになってしまってる。この状態にある、虐められている状態、それでも追いかける状態が、幸せ、と。悲しみの湖。
そして一度そんな湖に入ってしまったら、幸せとは、その状態であるという錯覚が残る。
だから、どんな相手に会っても、また、その湖の状態をつくろうとしてしまうんだ。
さらにはそれを続けていると、悲劇のストーリーをつくるのが上手になってくる。
毎日続けてるんだから当たり前。悲劇のヒロインな自分のストーリーづくりプロフェッショナル。
悲しみの筋トレ。
それを今では、一気にしなくなった。
悲しみの筋肉もきっと衰えてしまっただろう。湖は枯渇しただろうか。
おおきなおおきな、本物の海と、素敵な色の夕日、キラキラの星空、まんまるい壮大な大地。
そしてここにいる、地球みたいなまっすぐなエネルギーをもった人たちに影響されてる。
不満など考えず
ポジティブにとらえる
小さな幸せに気づく(実際それは大きな幸せだったりする)
しあわせを味わう。もぐもぐ。うんうん。
だってほら、いま私は、なんて幸せなんだろう
自然のちからは、すごいね
ふるさと、地球。このありのままの姿に、助けられている。