ジャーナリストの職業倫理 | 総合マネジメント事務所エスパスミューズ

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フランス語では職業倫理のことを、“la déontologie” といい、重要な社会的課題としてよく議論にのぼります。
“La déontologie”とは、職業上の実践、あるいは社会の一員としてのつながりを統御するモラルの規範、職業上の務め・義務のことを指します。

(さきほど手元にある日本語の辞書でひいてみましたが、「職業倫理」という項目は出てきませんでした。みなさんのお手持ちの辞書では、「職業倫理」の定義は出てきますでしょうか?日本語では、Deontologyをカント哲学から「義務論」の意味で用いることはあります。)


“La déontologie” の単語は、フランス語で1825年に誕生しました。イギリス人哲学者のJeremy Benthamの著書の翻訳本《 l'Essai sur la nomenclature et la classification des principales branches d'Art et Science 》から生まれた単語です。“La déontologie”の語源は、ギリシア語のdeon, -ontos(義務、すべきことを表す)から来ています。アリストテレスは著書の中で、「すべきこと、すべきではないことがある。なぜならそれらは特定の目的に達するために求められるものだからだ」と述べ、すでに職業倫理につながる概念を示しています。



日本において職業倫理を明文化しているのは、医療、福祉、法律の分野の職能団体が多いようです。フランスでも同様ですが、こうした分野に加え、常によく議論にのぼるのが「ジャーナリストの職業倫理」です。この背景には、1971年11月24日、ドイツのミュンヘンで「Charte de Munich(ミュンヘン憲章)」、別名「Déclaration des devoirs et des droits des journalistes ジャーナリストの義務と権利の宣言」が制定され、ヨーロッパのジャーナリストに採用されているからです。



さて、日本ではジャーナリストの職業倫理を見てみると、いかがなものでしょうか。世論を左右するような新聞記事にも、特定の記事以外は誰が書いたものであるか、名前が書かれていません。また、公式の見解をほとんどのメディアが採用しているだけで、国民にとって重大なニュースや事件を、新聞社や記者が独自の情報源をもって調査し、報道しているものは、比較的少ないと感じます。
非常にセンセーショナルではあるものの、裏付けは少なく、憶測の領域を出ないものや論理が破綻した説も出まわりますし、責任の所在が明らかにならないジャーナリズムの塊の中から、正義と悪を決定するような二極論も簡単に飛び出してきます。

日本のジャーナリズムのあり方を、今ここで再度問わなければならないでしょう。

そして、それを問うのは、わたしたち国民です。日本が民主主義の国家であるならば、国民は義務として自分たちで考え、行動しなければなりません。出来上がったシステムを変えることは非常に時間とエネルギーを要しますが、まず声を挙げなければ何も始まりません。

権威に盲目的に従うことではなく、知的怠惰を拒否し、徹底的に一人ひとりが考える姿勢を、情報の受け手としてのわたしたちは求められています。これこそが、外部の意思によって強制されることのない個人的な選択の領域であり、まさに「自由」であると考えます。