宝石緑初夏の筍

5月5日が端午の節句であったと同時に

この日は立夏でもありました

立夏とは

夏の気が立ち上がりはじめる日

という意味です

 

季節も巳の月の初夏となり

晩春からの陽気を受けた草花が

さらに勢いづいて咲き乱れます

躑躅(つつじ) 皐月 菖蒲

薔薇 藤 牡丹 芍薬

ジャスミン ライラック

花だけでなく

枝葉の新緑も輝きまぶしく

若草が匂い立って萌えています

 

どの植物も

めざましい生長をしますが

この季節の代表は

やはり筍ではないでしょうか

 

筍は土から太い顔を出したかと思うと

あっという間に竹へと

長く、高く、上に伸びていきます

まさしく身の丈の生長が驚異的です

 

 

 

 

 

宝石緑身の丈に合わせる

身の丈というと

「身の丈に合った」という言葉があります

「身の丈」とは身長や背丈のことですから

今の自分の体の大きさに合わせること

そこから

「分相応」という意味を持ち

社会的な立場や地位に見合った

無理のない自分らしい振る舞い

という意味で使われる言葉です

 

過度な虚栄にとらわれないように

生活や生き方の戒めとするには

確かに分相応ということは大事です

でもだからといって

成長できる可能性を秘めているにもかかわらず

分相応をなんらかの制約にしてしまうのは

とてももったいないとも思うのです

 

 

 

 

宝石緑身の丈というサイズ

身の丈に合った生活というのは

今の現実を受け入れることではありますが

将来に対してもずっと現状維持をする

ということとは違うような気がします

大切なのは

その時々の身の丈を確認しながら成長する

ということだと思うのです

 

筍が竹になるとそこには節ができます

筒状のまま真っ直ぐに伸びるだけでは

折れやすくなってしまい成長は望めません

ですからしっかりと生長するためには

いくつもの節目が必要になります

 

身の丈の節目はサイズだと私は思います

成長に応じてサイズは変わります

発育の盛りのときには大きく変化しますし

病気や老化のときには小さくも変化します

その都度の丈と量に見合った

装いや調度のサイズ感

これがジャストフィットしていると

内にも外にも

しっくりした成長につながるように思います

 

身の丈に合わせるというのは

外側の環境から抑圧されることでもなく

自身の中で諦める理由にすることでもなく

自分の成長や周囲の進展に応じて

自らサイズを変えていくこと

人生や生活の折々に

自分でその時々の自分を推し量って

節目をつけていくことだと思います

 

伸びたら伸びた分だけ

縮んだら縮んだ分だけ

増えたら増えた分だけ

減ったら減った分だけ

そういう分だけ自分に合うサイズで

自分を心地よくさせていくこと

身分や身の丈は

社会的な格差の枠のことではなく

自分の生き方の季節を巡る

その都度のポイントとして考えてみるのも

ときにはいいかと思います

 

 

 

宝石緑山の合目

サイズを表す単位の中に「合」があります

これは尺貫法という日本古来の

長さ、面積、体積、質量を計る単位です

この中で量を計る「合」は

現在でもお酒やお米の計量に使われていますね

この量を計る「合」ですが

登山する山の節目にも「合目」として

「合」が使われています

山の合目の由来は諸説ありますが

そのひとつには

尺貫法の「合」からきている

ともいわれています

それは油の量のことで

夜の登山で行灯を照らすのに必要な油

その油の一合分で行き着ける間の区間を

合目という説があるのだそうです

 

この山の合目の由来を聞くと

まるで人生の山登りのようでもあるなと思います

山の標高を均等に一から十まで割るのではなく

一合分の油による灯火(ともしび)が続くまでの時間

その間に行き着ける場所が自分にとっての合目

山の場所によっては

一合で多く歩ける安寧な道筋もあれば

一合でわずかしか辿れない難所もあるでしょう

どこまで遠い場所に行き着くか

どこまで高い場所に行き着くか

ではなく

一合という自分が持っている燃料で

どのように山道を巡っていくか

一合という量をどのように使っていくか

そのことの方を考えさせられます

 

 

 

宝石緑自分の持てる量

身の丈

人の成長は身長だけでなく体重でも表されます

丈だけでなく量も欠かせません

身の丈のサイズはその成長ごとの身長と体重

丈の長さと目方の重さ

 

その重さなりにできることは何か

その重さはどのような器に入っているのか

丈の節目と同じように

その時々の自分の容量

について考えることも

生き方のポイントとなるかと思います

 

その器に入るだけの量

量の大小ではなく

器の美醜ではなく

その器ごとの量

その都度の分量をエネルギーにして

その都度の分量を出し惜しみなく使って

今の自分のサイズを精一杯楽しむ

 

それを繰り返すうちに

やがてサイズが変わっていき

その変化にも柔軟に対応できていくでしょう

 

 

 

 

 

 

 

 

宝石緑度量と器量

2022年の5月5日から6月5日は

二十四節気の立夏から小満のひと月です

この1ヶ月の暦のひとつである九星は

八白土星です

 

八白土星のメインのシンボルは山です

古代の人は山の盛り上がりを

まるで大地が天へと成長していくかのように

イメージしたのでしょう

ですから山は大きな成長のシンボル

そして成長に通じる変化や節目

その節を持つ竹も八白土星が表象します

 

そして今年一年間の暦は五黄土星です

五黄土星は

目的意識、個別の成長、頂上

のシンボルです

 

5月は暦を表す盤の中宮(ちゅうきゅう)で

五黄土星と八白土星が重なるひと月です

ふたつの九星のシンボルの関係性から

身の丈について考えてみました

 

 

 

高くなった丈が視線の高さにもなって

足元を見下(くだ)すのではなく

麓に寄り添って見下(お)ろせるように

 

器の分量は目に見える部分だけでなく

人柄の大きさにもなっていくように

 

人の成長も年齢や身体の表面だけでなく

筍から竹への生長のように

いい節目をいくつも越えて

度量や器量といったおおらかな心を

人生の中で育んでいきたいものですね

 

 

 

 

 

 

 

 

桜苦労の日々

飼い猫はその成長に応じて

いろいろな遊びに興味を持ちます

我が家では子猫から青年期にかけて

ソファーの下で仰向けになって

底面に爪を引っ掛けて体を滑らす

という動きに夢中になっていました

おかげでソファーの下の布が

ボロボロになってしまいました

あまりにもひどくなったので

布の張替えのDIYをした

とある休日の1日がありました

 

 

 

これだけでなく猫との生活では

物を壊されたり傷つけられたりと

人間だけの暮らしでは思ってもみなかったような

不都合なことがいっぱいあります

そしてその都度

手直しや加工することの繰り返しです

はっきり言って苦労が絶えません

けれど、苦労といえば確かに苦労ですが

それが不幸だということではないのです

 

 

 

 

桜苦は苦味

苦労の言葉の「苦」の漢字は

「苦い」という言葉にも使われます

この苦いという味は

陰陽五行の中にある五味のひとつです

 

五行というのは

木・火・土・金・水と5つの性質があり

木性は酸味を

火性は苦味を

土性は甘味を

金性は辛味を

水性は塩味を

それぞれに担当しています

 

苦味を担当しているのは火性です

火性の性質というのは

芽吹いた命がさらにその先の成長へ向かう時期に喩えられます

保護のもとにのびのびと

まだ世の中の分別も分からずに

無邪気に動き回っていたシーズンを過ぎて

社会の中で自分というものを

どのように活かしていこうかと思い始め

またそのために必要な技能を身につけるなど

自分の特性を顕著にしていく季節にうつります

ですから火性の性質というのは

現状よりもより高いレベルへの挑戦や

上昇による変容などという

意味合いを持っています

 

苦味というのは

まさにそのような限界突破の時に味わう体感

を喩える言葉だと思います

 

火性の陰陽のバランスが取れていれば

それは苦味のバランスもいい

ということなので

例えば

目標に向かう成長のために

次のレベルの課題にトライできる環境や

これまでの若年のように

むやみやたらに動かずに

落ち着いた姿勢で全体を見渡しながら

集中して自分らしく物事に取り組むことが

身の回りに生じる状況が考えられます

 

火性の陰陽のバランスが崩れれば

それは苦味のバランスも崩れ

陰陽の作用がどちらにも過剰か不足になり

例えば

目標の設定が高過ぎて緊張状態となり

心身が張り詰めていったり

次のステップに行きたいのに

周囲の環境が低層すぎて

自分の希望とする進路が塞がれたり

そのような問題の様子が考えられます

 

このように

陰陽のバランスが良くても悪くても

火性の苦味というのは

高次へと自分のステージを

上げていくための行動や

そのための熱意を保つことですから

そこには苦味の文字を持つ

苦労がつきものとなるのだろう

と私はイメージします

 

 

 

 

桜苦味という愉しみ

ただ苦味という味は

決して悪いものではなく

ときにはビターな味わいとして

ほろ苦い奥ゆかしさを感じさせます

子供には刺激が強すぎてしまう苦味

これこそは

大人にならなければ味わえない

苦味という愉しみでもあるかと思います

 

 

苦労をしているときには

ただただ懸命なだけで

その状況を味わうことはできないでしょうが

苦労の経験を通過して

やがて次の季節に成長を遂げたときに

過去を振り返られる余裕ができると

時間の鍋で煮詰めたことによって

苦い記憶や体験もまたよい思い出となり

ひとつの素敵な味わいになることでしょう

 

 

 

このように思い出になれば

それは味として

あの時の苦労が今の幸せになっている

あるいは

苦労の真っ最中ではあるけれど

それが張り合いや生きがいになっているのだから

苦労できる今こそが幸せとも思えるものです

 

ですから

苦労が不幸ということではないのです

 

 

 

 

桜苦労と苦痛

もしも苦労によって不幸を感じるのであれば

それはすでに苦労ではなくなっているのでしょう

不幸を感じるとき

それは苦労ではなく苦痛なのだと思います

痛みだけでは何の味わいも生じません

 

苦労は

その行為がいつか味わいになるのであれば

いずれは幸せを感じる可能性があります

苦痛は

味わうことができないのであれば

それはいつまでたっても何の喜びも生みません

 

味わいに変わらなければ

痛みから逃げたくなり

ときにはそれだけでなく

自分の生活や人生を消したくなるような

心身や命を追い込むほどの

危うい衝動さえ生じかねません

 

苦労と苦痛は

それくらい違うものだと思います

 

 

 

 

桜苦味の有る無しを見極める

2022年の4月5日から5月4日は

二十四節気の清明から穀雨のひと月です

この1ヶ月の暦のひとつである九星は

九紫火星です

 

九紫火星は

火性で苦味を担当します

また

照らし合わせてよく判断する

適切な距離をとる

という意味合いのシンボルです

 

そして今年一年間の暦は五黄土星です

五黄土星は

目的への行動、全体への支配

体感、自分なりの意思決定

のシンボルです

 

4月は暦を表す盤の中宮(ちゅうきゅう)で

五黄土星と九紫火星が重なるひと月です

ふたつの九星のシンボルの関係性から

この期間に山や壁を感じるのなら

それをこのひと月の暦のテーマと思い

チャレンジする課題として

捉えてみるのもいいかもしれません

 

ただその労力が

喜びの可能性の苦味のある苦労なのか

報われないだけの味のない苦痛なのか

それをきちんと

自分で見定めることが大切でもあります

 

 

 

今年の3月は

晴天でも北風が吹くとかなり寒く

寒の戻りが厳しい日もありました

いよいよ4月に入りますので

ようやく暖かさが増していくでしょう

辰の月の晩春に咲く花のように

火性の性質を意識して

内にも外にも明晰な光を向けながら

たとえ苦労に見舞われたとしても

やがてはほろ苦い思い出となるような

素敵な春の盛りのひとときとなりますように

 

 

 

 

 

 

おにぎり食事の時間は戦の時間

猫たちと家族になってからというもの

食事の時間は戦闘の時間となりました

 

オス猫軍は腹を満たすため

好物の食材を狙います

メス猫軍は遊び道具欲しさに

お箸を狙います

飼い主は応戦などせずただ静かに

自国の領地で食事をしたいだけなのに

隣国の軍がそれぞれの欲望を持って

果敢に攻め入ってくるのです

しかも毎食ごとに

 

オス猫軍とメス猫軍の目的が同じならば

こちらもその一点を防御すればいいのですが

一方からは兵糧を

もう一方からは武器をと

それぞれ核心の部分を狙ってくるので

攻められるこちらは

二重の防御でてんやわんやになります

 

猫にとっての餌と遊びは

なによりも楽しい時間でしょうが

人間にとりましても

食事の時間は至福のひとときです

それが

毎回必死の戦になるなんて

 

 

 

 

 

おにぎり不利な戦い

私の食事の場所は

お気に入りのカウンターテーブル

そう、ここは

食事の時間には

調理や配膳にはとても便利で

食卓としてはゆったりと寛げて

とにかく快適で心地よいひとときの居場所

・・・になるはずだったのに

 

カウンターの高い縁(へり)に

オス猫軍がしっかりと陣取ります

戦では高地に陣取った方が

戦場がすべて見渡せて絶対的に有利です

それに対して私は

テーブル側の低地にいるので

態勢は絶望的に不利!

 

さらには

戦の陣取りだけでなく

軍事力にも圧倒的な差があります

あり過ぎます

そもそもこちらは

自分の食事をしたいだけであって

戦いなんて望んでいないのですし

場合によっては空腹で

力が備わっていないときなのです

しかしそれに対して

猫軍はものすごい速さの瞬発力

獲物を放すまいとする野生の欲望

最終的には研ぎ澄まされた爪と牙

戦の意識と準備のないこちらに

好戦的興味だけでひたすらに

猫軍に攻められるというのは

なんという不利な戦なのでしょうか

 

そう

私が夢見ていた

新居での静謐な食卓は

猫が成長してからは

負け戦が続く戦場と化したのです

 

 

 

 

 

 

 

 

おにぎりカウンター越しの勝敗

このように我が家のカウンターは

猫軍にとって有利な戦場でとなり

飼い主は一方的に攻め込まれて

領土は脅かされメンタルを削がれ

場の自由と気分を荒らされるという

徒労の時間を定期的に過ごすのです

 

形勢と態勢は猫軍の勝利ですが

だからといって猫軍は

何かを勝ち取っているのでしょうか

 

兵糧を奪おうと攻め込むたびに

飼い主の防御にあって

なかなか奪い取れず

何度も何度も上から下から

しつこくしつこく右から左から

攻め入ってみても

満足に兵糧を持ち帰ることなど

ほとんどありません

せいぜい利き手の掌に出し汁をつけて

それをペロペロ舐めるくらいのものです

 

本質的にはどちらも勝利していないのです

 

 

 

 

 

おにぎり勝利は正しさではないことも

はてさて

勝負とは、勝敗とは、

一体なんなんでしょうか

 

理想を言えば

道義的な正しさが善い力を持って

勝利するのが望ましいと思います

けれど世の中というのは

なかなかそのように機能しません

 

勝利とは一面的なもので

その場面で力が強く数が多かったものが

勝ちとなります

ですが

力の強さと数の多さが

本当の正しさでないこともあります

必ずしも

正しいことが勝利するわけではなく

むしろ負けたものの中にこそ

宝となるものが眠っていることもあります

 

そもそも

好戦的ではないから負けるのです

優しくて相手の痛みがわかるから

人道的に接することができるのです

大切なものを既に知っているから

人のものを奪おうとはしないのです

だから勝ったからといって

それらがすべて

必ずしも正しいわけではないのです

 

 

 

 

おにぎり負けて残るもの

勝つことの意味や大義も

もちろん大切です

ただそれにはルールのもとにであるとか

裁定が公にフェアであることが前提の場合です

 

侵略や謀略による

一部の権力者のための勝利は

本質的な勝ちとは程遠いことが多くあります

 

長い歴史を見てみると

負けた部族や国の

精緻で高度な技術に魅力を感じ

文化の素晴らしさに憧れることは

多くあります

きっとそこには既に

本物の価値が備わっているからなのでしょう

 

たぶん本当の勝利とは

永続させられる力を持っていること

なのだと私は思います

 

だから一面的に

その場では負けたとしても

本当の力のあるものは

敗戦からの逆境を超えて

残り続けていくのです

 

 

 

おにぎり負け戦を覚悟

たとえ一面的であっても負けるのは嫌です

敗戦処理は本当に徒労で虚しくなります

なるべくなら

勝利までいかなくても

負けないような対応力は

身につけた方がいいに決まっています

けれど

どうしても譲れない場面で

核心的な尊厳や価値を

死守したいのであれば

負け戦覚悟の攻防戦も必要だと思います

 

そう

負けないことよりも

目の前の勝利にこだわって

本当の勝利を見失わない方が大切です

 

負けることを恐れるよりも

大切なことを失うことの方が

自分にとって一番危ういことだと

最近ではそう思うようになってきました

 

 

 

 

おにぎり勝ちよりも価値を

2022年の二十四節気の啓蟄と春分の期間

3月5日から4月4日のひと月の

暦のひとつである九星は

一白水星です

 

一白水星は

低い立場、粗末な扱い

徒労、浪費、虚しさ

隠される、秘められた能力

のシンボルです

 

そして今年一年間の暦は五黄土星です

五黄土星は

再生、情の深さ、しっかりとした目的

のシンボルです

 

3月は暦を表す盤の中宮(ちゅうきゅう)で

五黄土星と一白水星が重なるひと月です

ふたつの九星のシンボルの関係性から

表面的な勝利を鵜呑みにしないで

負けたものの中にある本当の価値を

丁寧に掘り起こして再建することを

意識してみたいですね

 

 

ダルマ猫と暮らし始める

連れ合いの夢のひとつが

ペットと生活することでした

それを実行に移そうと

ペット飼育可能な物件への転居

をきっかけに猫を飼い始めました

 

今でこそ

2匹の猫がいる生活が当たり前となり

彼らとの暮らしが幸せであるのですが

もともと私は動物がとっても苦手でした

一緒に暮らすなんてあり得ないことでした

だからこそ

連れ合いとの暮らしも考えたとき

猫とも暮らす生活への覚悟をしました

苦手なものを受け入れるのですから

私にとってはすでにマイナスなのですが

動物を飼育するうえでの

あらゆるマイナス要素を考え尽くして

どれほどの大変さがあっても

それらを全て責任持ってやり遂げなければ

と、今にすれば決死の覚悟をしていたものです

 

子猫が我が家に来てからというものは

予想外の喜びや楽しみに満たされました

連れ合いとの間に笑顔と笑い声が

これまでになく

たくさん溢れるようになりました

だからといって

大変なことが減るわけではありません

子猫の世話という

毎日欠かせない日常が続くのです

私の中で湧き出る母性の泉と

それゆえに

この命を守らなければという必死さで

気がつけば

自分のことを「お母さん」

連れ合いのことを「お父さん」

と呼ぶようになっていました

 

生まれて初めての動物の飼育は

病がちの子猫でしたから

母親のような情が強くなるのは

必然だったとも思いますし

それと同時に

動物に対して初めて感じた愛おしさに

こちら側にも懐いて欲しいという

それはまるで

「人間の親子の理想の姿のように」

というような都合のいい甘さ

のようなものもあったのでしょう

 

 

 

 

 

ダルマ飼い主になる

飼い始めの頃に目にした記事の中に

とある動物のお医者さんの言葉がありました

「飼い主は主人ではありません」

そこに書かれていた意味合いは

特に猫の場合は

躾けによって従順に懐くことはなく

主従関係がとりづらい動物です

だから人間が主人で

それに従う関係とは思わず

飼い主であることをわきまえておきましょう

というものでした

 

近年のペットブームの中で

人間の都合で多くの動物が

傷つき虐げられていることもあり

可愛いから、寂しいから、だけの

身勝手な飼い方をしないための

警鐘が込められた記事の言葉でもありました

 

もちろん私には

猫を従わせようという気持ちは

毛頭ないつもりでしたが

それでも

人生で初めて動物の世話をする身となって

「飼い主と主人は違う」

という意味を

突きつけられたような気がしましたし

猫と一緒に暮らし始める中で

「飼い主になる」ということを

いつも忘れないでおこうと

思うきっかけになりました

 

「飼い主であること」

この言葉を繰り返すことによって

動物嫌いから一気に

子猫に骨抜きにされ

猫ファーストの生活に変わって

気持ちばかりが過剰に緊張して

頑張りすぎていた肩の力を

少し抜くことができたようにも思います

 

 

 

ダルマ飼い主という役割

「主人」というのは「立場」です

「飼い主」というのは「役割」です

上下関係で生活をするのではなく

人間は人間の、猫は猫の、

それぞれの役割を持ち寄った暮らし

そういうことなのだろうと

今の私は思っています

 

猫が

弱い立場で飼育が必要

だから室内飼いをするわけではありません

絶対に

 

猫は

若草のようにしなやかで

慈愛すら思わせる知性があって

俊敏な判断力には

勇気すら見せつけられます

跳躍の逞しさと軽さには

神々しささえ感じます

人間では及びもしないほどに

とても強い生き物なのです

 

その強い生き物が

私たちの都合による招きで

この家で暮らしてくれているのです

だから私たちは

決して猫の主人ではないのです

招いた以上私たちは

世話をする役割を果たし続ける

飼い主なのです

 

「飼い主」なのだということ

「飼い主」であるのであれば

日々の世話を粛々ときちんとしよう

それでいいのですし

それしかできないのです

 

そう思い始めた頃から

私は「お父さん」「お母さん」

という呼び方をやめました

それと同時に

連れ合いとの夫婦生活での

ニックネームでの呼び合いも

やめているようになっていました

 

オスの成猫は「△△くん」

メスの子猫は「□□ちゃん」

連れ合いは「○○くん」

私は「○○ちゃん」

1匹ずつ、1人ずつ、

それぞれの固有の名前で

呼び合い、報告し、表現し、

意思疎通する生活になりました

 

 

 

ダルマ4つ分の命

4つの頭と体の分の個性で生きている

4つの頭と体の分だけの役割を持ちよる

人間だからこうしなければ

猫にはこうあって欲しい

とかではなく

4つの頭と体で

生き方そのものが違うこと

理解し合えないことがあること

ひとつ屋根の下にいるからといって

みんなが一緒ではないという

本来当たり前のことを共有しながら

4つの頭と体の分の個性で生きている

4つの頭と体の分だけの役割を持ちよる

名前の数の分だけの

それぞれの生き方と暮らしていく

 

4つ分の命と暮らすようになって

今はそう感じています

 

 

 

 

 

ダルマ命を温め合う

2022年2月の

暦のひとつである九星は

二黒土性です

 

二黒土性は

生命、母性、養育のシンボルです

 

そして今年一年間の暦は五黄土星です

五黄土星も

生命、活力のシンボルです

 

今月は暦を表す盤の中宮(ちゅうきゅう)で

二黒土星と五黄土性が重なるひと月です

ふたつの九星のシンボルの相関性から

生命そのもの

そしてその命ひとつずつの尊厳

上下関係ではなく異なるもの同士の連携

なによりも

認め合い、許し合って、持ち寄って

互いの拠りどころになる

暖かく長く日常を続けていくこと

そういうリフレームが見えてきます

 

 

新暦では2月ですが旧暦では1月です

1月の二十四節気は小寒・大寒で

まだまだ寒中です

二黒土性と五黄土星に思う

命を温め合うことを

大切にしたいものですね

 

 

 

 

 

ブーケ2立春

今日、2022年の2月4日は

二十四節気では立春です

 

立春とは

春の気が立ちあがり始める日

という意味合いです

 

春夏秋冬の四季は

春から始まるとされていますので

この最初の春のそのスタート初日が

新しい一年が始まるとされる暦です

 

立春を年の始めとすると

その前日の2月3日が前年最後の日

ということになるので

2月3日は年の節目ということで

節分という一日になります

 

現在の新暦では

大晦日を過ごしてから正月を迎える

という月日の流れですが

季節の巡りで区切る場合では

立春という季節の最初の始まりがあり

その前日にあたる日を

一年間のラストの節分するのが

この暦の見方であります

 

 

ブーケ2思い出に支えられる

毎年、毎年、

一年ごとに年が革(あらたま)ると

一年ごとの体験が積み重なり

そのひとつずつの体験の積み重なりが

ひと筋ずつの経験となるのが

半世紀近く生きてくると

よくよくわかるようになります

 

 

楽しく、ときめき、

成功して自信につながる甘酸っぱいことも

苦しく、傷つき、

失敗して挫折で行き詰まる渋く苦いことも

 

それらの体験と経験は

忘れられない思い出となって

この体の中に蹲(うずくま)るように

しっかりと蓄積されているのです

 

そしてその思い出は

目には見えないけれど

医科学では論じられないけれど

ときには

自分で自分を支えるための

判断や選択をするときの知恵になったり

不安や焦りをガードする免疫になったり

思い出という影法師が

脳内や体内で自分を一生懸命

支えてくれているようにすら思います

 

 

 

ブーケ2「思い」と「思い出」

「体験」と「経験」が似て非なるように

「思い」と「思い出」も似てるようで違うのです

 

 

「ひとつの事実」が起きたとき

それを体験した

「自分にとっての真実」が生まれます

そのひとつだけの体験を

事の結果にだけにしか目がいかず

成否の原因探しだけにとらわれてしまうと

きっとその体験は干からびて

味気ないものになってしまうのでしょう

風味のないものはあまり思い出されないでしょう

 

自分だけの体験に

もしなんらかの意味合いを

ほんの少しでも

加えられたのであるならば

忘れられない思い出の経験になるのだと思います

 

思い出とは

勝手に過去が積み重なるのではなく

なんでもないような体験の

ひとつの場面の繰り返しを

「自分の思い」で

どのように色づけするかで

生じていくものなのです

 

成功の喜びがあったとき

ただ舞い上がるだけでなく

サポートしてくれた周りや環境を

見つめ直してみたり

失敗の挫折があったとき

悲しんで投げ出すだけでなく

遠回りしたからこそ得られることや

立て直す術を体得したり

 

そのように

自分の視野の中で

体験と体験の間を

自分なりの思いでつなげようとするときに

体験が経験になっていくのだと思います

 

体験を経験へと色づけしていくときに

未来の自分を

どこに向けて行きたいのかという

思いによって描かれるワンシーンが

思い出になっていくのです

そして色づけされた体験は

時間がたっても干からびる事なく

何度でも思い出される記憶となるのです

 

 

 

ブーケ2思い出が記憶になる

鉄棒の逆上がりや自転車の乗り方

好きな歌や通い慣れた道など

習得してしまった動作は

ブランクがあったとしても

体が覚えていることがあります

 

何度も繰り返したことは

逆にそれを手放すことができないほどになります

記憶という臓器が

体内に生じたのではないかと思うほどに

自分から全く離れなくなる思い出というものに

苛(さいな)まれることすらあるほどです

 

思い出が記憶になるというのは

そこまで強固に

体験と経験が自分の体内と脳内に

固着や癒着していくことなのだと思います

 

「思い出」には「思い」がかかわるのだとすると

固まっていく記憶には

自分の思いがしっかりと含まれているのです

記憶が臓器のようになって

自分や自分の人生を色づけるのであれば

その最初の思いの発露は

とても重要なひと筆からの一滴だといえます

 

そのように思いとは

最初はささやかであっても

いずれ形となり

人の面影にまでなるのです

 

生活の中での出来事への思いが

自分の印象や人生まで形作るのだとすると

何を体験したかではなく

その体験から何をどう感じ考えたかの方が

とても大切になってくるわけですね

 

 

 

ブーケ2マザー・テレサの言葉

 

これはマザー・テレサが

言ったといわれてる言葉です

 

映画

『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』

の中でも

サッチャー元英国首相の台詞に使われていました

 

「思考に気をつけなさい

 それはいつか言葉になるから

 

 言葉に気をつけなさい

 それはいつか行動になるから

 

 行動に気をつけなさい

 それはいつか習慣になるから

 

 習慣に気をつけなさい

 それはいつか性格になるから

 

 性格に気をつけなさい

 それはいつか運命になるから」

 

 

 

ブーケ2記憶という臓器

思い出が形づくられて

私たちの体内にとどまり

ときには循環して

自分の人相になり所作になっていく

思い出が自分の生活を支え

思い出が自分の人生まで作っていく

その思い出を色づけるのも自分

 

記憶という臓器が

やはりあるように私には思えてなりません

 

 

 

今年2022年の暦のひとつ

九星は五黄土星です

五黄土星には

現実的に行動する働きから「体験」

固定させて形づくる働きから「記憶」

質量多く蓄える働きから人体象は「臓」

というシンボルがあります

 

今年一年の体験が

新たに始まる春のように

暖かな思いで

麗かな思い出となるよう

今日の立春から重なっていきますように