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昨日の記事にも書いたように、わたしはセッションという場において、ガイドより数々の指摘をいただきます。

アドバイスとか、提言 のような少し柔らかいイメージではなく、「ザ・指摘」というイメージです。

 

指摘の言葉の意味を調べると・・・

問題となる事柄をこれだと取り上げて指し示すこと

とありました。

 

セッション場は、あらゆる方向からの避けようがない指摘の雨が降り注いでいる というイメージです。

 

先日、Gateセッションを受け始めた頃の音声を聴いていたら、今の「指摘の雨」というイメージはさほど変わらないですが

今のガイドの感じと比べると、以前は「ピシっ」とした優しさのカケラもないような言い方、ストレートパンチを頬に喰らうような刺激の大きい放ち方 だったのが

今は、少しだけ、柔らかな言い方、表現になったな、と捉えられます。

 

これは、意識とエネルギーはほぼ変わってないが、自我の出張を外に出すという表現が前よりは減ってきた というわたしの変化を表わしているんだな、と思いました。

ガイドもわたしの鏡ですから・・

 

でも、相変わらず、ストレートな指摘 だな、と感じるわけです。

前よりは少しだけ柔らかな言い方にはなっているけど、相変わらず、「ズバッと痛いところを突く指摘」だな、と。

 

先日のセッションの最後の方で、

わたしは、意識が固い(ゆるみがない)、女性性が弱い、男性性が強い という内容をガイドから言われた話の流れの中で

男性性的な、スキっとしたとか、整然としたとか、きちんと整頓されている というイメージが好きなんでしょうね、と言われた際に

 

わたしが大学で専攻したのが、言語学 だったという話をしました。

英語という言語の構造を学ぶ分野を専攻したが、逆に英文学のような「文学」といった何と言うか情緒的なものを学ぶことにはまったく興味がなかった(意味がわからなかった)という話をしました。

 

ガイド曰く

いわゆる自我の意識場と言うのは、どちらかというと「文学」みたいなもの。(文学:思想や感情を言語で表したもの)

一元意識は、言語学のような構造だったりシステムみたいなもの。

ということで、

文学が苦手というか、意味がわからないから、今、観察している自分という自我の意識場を観ていくというのが苦手なんじゃないの?と言われました。

 

なるほどね~と思いつつ、だから「英語」という言語が好きなのも、男性性的な部分が強いからなのかな(得意かどうかは別として)きっぱりわかりやすい構造をしているので、理解しやすいのです。

 

わたしが元々苦手というか、意味がよくわからない文学的な自我の意識場を観ていく鍛錬、なかなかに苦手な道(未知)なのかもしれません(^-^;

 

 

女性性的な、受け容れる とか、融合するとか、曖昧さ(わからないものをそのままにしておける)とか、そういうのが苦手で、

闘う(闘争心) とか YESNOはっきりさせる、わかりやすさ みたいな男性性的なものが好み。

 

男性性的なものが好みはいいとしても、、女性性的な、受け容れるとか融合するなど、そういうものを育てていくことが

自我の意識場を観ていく ということにも繋がってくるのかもしれません。

 

今のわたしを知って(今の自我の意識場を捉えて)、希求する方へとその自我を超えていく(自我が扱える範囲を広げていくイメージ)

→ 男性性的な部分は強いので、今度は女性性的な部分を育てていき、自我を緩めていく(自我を拡大していく→最終的には自我がなくなるイメージ)という方向性なのかな、と思っています。

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました☆

それではまた~