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仕事における観察になります。
あるお客様から、同僚Uさんとわたし宛に質問が4つ書かれたメールがきました。
このお客様とは、今までもわたしとUさんで表向きの対応はしています。
その質問メールを受信してしばらくしたら、上司から、Uさんと上司とわたしで話し合う?とメッセージがきて(どう対応するかの話し合い)
午前中はUさんはお客様対応だったので、午後からやりましょうとなりました。
わたしは長いメールの内容を読み、いくつかの概算を準備しておいた方が打ち合わせがスムーズにいくかな、と思い、いくつかの数字を準備し、チャットに送っておきました。
そして、午後になり3人で遠隔で繋がって打ち合わせがスタート。
打ち合わせを進めていくうちに、上司がメールを細部まできちんと読んでないな、と判断できる上司の発言があった際に、わたしは、「相変わらず、細部まで読んでないのね~自分から打ち合わせやろうと提案したのに」と思考しました。
この反応より、わたしの意識がフォーカスしたのは
「わたしはちゃんと読んで数字の準備もしているのに、打ち合わせを提案した本人もメールを読むくらいやったらいいのに」という
労力の平等性を求める ような観点があることが観察できるかなと思います。
「協働する」という創造において、相手の不足と思えるところを指摘したい(こういうやり方をしたら?わたしのやり方は~
だから~したらいいんじゃない?など)自我様がおられます。
「協働する」という創造には、相手の不足と思われる部分は「わたしが補う」、わたしの不足を「相手が補う」、つまり「支え合う」 という観点が必要なのに、その観点が欠如しているのがわかります。
そのお客様の過去のデータを確認していく中で、上司が一人で日本支社を営業していた際は、データ保存がきちんとされておらず(チェックするマンパワーもなく本社の担当によって登録されたまま)あることを確認するために、上司が過去のメールを検索して、それを共有して、会社のデータベースを照合して、、、という作業を長々とやっていました。
わたしは過去を引っ張り出していろいろと確認をしている際に、その理由がいまいちわかってなかったので、「なんでそこまで追う必要がある??長いし、何の意味があるの?」という思考が湧いていました。
この反応より、今到来している現実が起こっている意味がわたしにはわからない、だれか説明して、状況をわたしにきちんと理解させて、というわたし最高位の観点にあることがわかります。
でも、観察する段階になって、ある情報に対する信ぴょう性を疑った上司がいて、それを確定させるために過去に情報を引っ張り出して、あーだこーだとやっていたんだなぁ~というのが思い出されました。
つまり、わたしが自我を出張らせているから、上司が放った一言をその時はちゃんと捉えられておらず、何のためにやっているか不明だ、、という認識になっていたという、わたしの意識の散漫により創造された反応だったなとも捉えられます。
わたしは打ち合わせの途中まではUさんがお客様に返信をするのかな、と思っていました。
が、打ち合わせ終盤、UさんのPCがかたまって故障か?!と思われる状態になり、Uさんは返信どころじゃなくなり、最終的にはわたしがお客様に返信を送ることになりました。
4つのうちの3つ目の質問に対する答えを話し合っている際、上司の観点とわたしの観点が異なっており、上司が提案するその回答では、お客様に対してわかりやすい返信となってないなと感じていました。
~~~ですか? という質問に対して、YES、Noで答えていないのです。
上司の観点はおそらく「売り上げにつながる方向へもっていくような回答」
わたしの観点は「わかりやすい返信」
と異なっていました。
Uさんが回答を送ると思っていたし、3つ目の質問に対する上司の回答の趣旨に対して、Uさんは、わかっているような相槌を打っていたので、わたしの観点からずれていて、最終的にどうテキストで表現したらいいかわからないけど、Uさんが適切な文章を考えてくれるだろう、と思って、
上司の観点は理解できるけど、わたしのとは異なる~~という、あくまでは上司の意図はわかるけどわたしには受け入れがたい、、という状態で打ち合わせが終わってしまいました。
そして、実際にお客様に回答するテキストを作っていた際に、上司の意図を含めた適切な文章が作れず、Uさんに助け舟を求めていました。
このわたしの反応に対して、ゆかさんのブログから、こういうふうに意識すればいいのかな、という箇所を見つけたので、以下に転記して終わろうと思います。
二元の世界観に囚われそうになる時は
「自」と「他」の差異にフォーカスがあります。
そうした時は、1つの音だけに「集中」して
「比べる」のではなく、「聴こう」とします。
音楽でも、音を合わせようと思う時は、
相手の奏でる音をよく「聴き」ます。
しかし、引きずられては奏でられません。
ソプラノとアルトが同じ音階になっては
意味がないように。「自らの律」を、
よく捉えていないと引きずられます。
「異なり」を受け容れ、「わたしの音」を持ち
同じだけ「あなたの音」を知る事から、
奏でられる新しい「協和音」があるのです。
そこには「比較」はなく、「お互いの凹凸を
どう活かし合おうか」という観点があります。
最後までお読みいただきありがとうございました☆
それではまた!