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先日久しぶりに知人Aさんと会っておしゃべりをしました。

 

Aさんの現状の話を聞いていたのですが、Aさんはある事情により、Aさんにとってとてもお気に入りのある2つのものを手放さなきゃいけないタイミングがきているそうです。

人間的な感覚だと、とっても大きなもの2つ という印象です。

 

でも、ご自身のことを、「一旦気に入ったお気に入りを手放す」ということがなかなかできないので、「執着」とはわかっているが、スパッと手放すことできないということを、他の例(例えば、ボロボロになっても処分しない衣類とか、学生時代から収集してきた大好きな世界のパンフレットなど)を挙げつつ、説明してくれてました。

 

わたしはその話を聞きながら、そういう性質はわたしには該当しないかなぁ~なんて、他人事のような思考を抱いていました。。

 

 

Aさんの意識の創造構造を捉えてみると

「執着」という状態にあり、それを認識しつつも、自身の特性(わたしはお気に入りを自らは手放せない人であるという認識)としてその特性を大切に掴んでいる となるかなと思いました。

 

Aさんのように、わたしも何かに執着していることあるのかなぁ~比較的わたしはあまり執着しないで手放していく方だと思うけどな~なんて思考したりしていましたが

 

常に執着しているではないか、自我(ストーリー)への執着 半端ないよね、と思い至りました。

 

Aさんのように、お気に入りのボロボロの衣類や、学生時代から収集してきた趣味の世界のモノ みたいなものはないですが、日々、自我の意識場で生まれる思考や感情に執着して、サクっと手放さず、じっくりと幻想と言う自我ストーリーに嵌って掴んでいるではないか、、と

やっぱり鏡ですね、となっております。

 

さらに、わかっているけどやめられない 状態で、そのわかっているけどやめられない 理由となりうることをAさんは共有してくれており、

その観点は、まさしく自我というわたし中心 の捉え方 であるなぁ~という感想をわたしは抱いたわけで、、

 

パッと手放せない理由、そうなっている理由 は、何とも「わたし」観点からのみしか捉えてない理由たちで、、、

わたしがなにかに執着して、その理由を述べているときがあるとしたら、このように「わたし」の観点からしか観れてない位置にいるんだなぁ~とやっと気づいた状態です。

 

「執着」というのは「わたしのもの」という所有の概念をその対象に設定し、その対象を手放すことができない状態? であると思います。

 

自我というものをわたしの一部と捉えるのではなく、わたしの全部と捉え

自我=わたしの全部 → 自我の意識場でうまれる思考や感情 = わたしの全部、わたしのもの と捉えることで

それらを手放すことができず「執着」という状態になるんだなぁ~ なんてことを思った次第です。

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました☆

それではまた!