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自治会での活動で年に数回ある近所の公園の草取りから帰ってきた母が、草取りでのことを話してきました。
一つ目は、ご近所Aさんが草取りに出てきておらず、前回も出てきてなかったとのこと。
Aさんは、ポカっと忘れてしまうことがあるらしいが、母のように、紙1枚につき1つの予定を書いて、それらを日付が近い順に上から重ね、冷蔵庫の扉に貼っておけば、冷蔵庫を開けるたびに見るから忘れないのに、、義妹がカレンダーに予定を書いている ということも話題に出して、
Aさんも、義妹も、母のように冷蔵庫に予定を貼ったら忘れないのに、、と言っていました。
二つ目は、母は、公園の草木にたくさんいた虫(ダニとか、蚊とか)が衣類についていたら嫌だなと思い、帰宅してすぐに上着とズボンは洗ったとのこと。
一方、ご近所Oさんは、半袖で、軍手はしていたが、刈った草を抱えそれが素肌についていて、虫とかいるだろうに気にならないのだろうか、袖のあるのを着たらいいのにと思った、と言っていました。
わたしは、一つ目の話を聞いた際、「また」母は他者のやり方を否定している、、と思考しました。
これは、今と過去を繋がている、つまり連なりを投影している構造があるのがわかります。
この創造構造は、デフォルトであるので、意識的にならないと、すぐに過去を今に投影しています。。
そして、この母を鏡とするならば
自分のやり方=肯定(良い)
他者のやり方=否定(悪い)
と振り分けが働いているのがわかります。
さらに、自分のやり方が他者にとってもベストである、というわたし最高位の鏡です。
これは、自分にとってはベストかもしれないが、他者にとっては適さない場合もある ということが盲目になっていると捉えられます。
わたしはよく、他者の話を聞いていて、他者が特に、その話題に対してネガティブな想いを抱いていると
~~したらいいんじゃないか、○○したらポジティブになれるんじゃないか、、ということを「いつも」思考しています。
そして、それを口に出すことも多々あります・・・
ネガティブであることを否定しているし
~~や○○はわたしだったらそうするというわたしにとってはベストの選択かもしれないけれど
その他者にとっては適さない ということが全く観えてないので
母はわたしの鏡だな、と改めて思いました。
このような自我の極端に狭い視点(観点)に嵌りこまない為にも
あらゆる思考、情動(自我)を最後尾に起き続て、観察者を立てて観察していくことが大事なんだよなぁ~と思いました。
最後までお読みいただきありがとうございました☆
それではまた!