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母が、週末に一緒に過ごした従妹について、わたしに尋ねてきました。

「○○ちゃん(従妹)は、今は特に働いてないの?」と。

 

少し前に聞いたときは、従妹は、時々業務委託で仕事を受ける、みたいなことを言っていたのを思い出しわたしは

「ときどき外注として仕事を受けることがあるみたいだけど、定期的な形では雇われたり仕事を受けてはないと思う。」と答えました。

 

すると母は「△△ちゃん(下の子)が手がかかるうちは、それでいいね。」という内容のことを言いました。

 

この事象について観察しました。

 

わたしは母の2番目の発言を聞いて

 

・母は何を思ってそういう思考が出てきたんだろう、わたしが少し前に従妹に関するあのこと(具体的に思考)を母に共有したがそれを受けてのこの思考かな

・母よ、他者の世界の在り方に母の意見はいらないし、母の判断(ジャッジ)もいらないのでは?

という内容を思考しました。

 

最初の思考した内容から、この事象という「点」で捉えるのではなく、過去のある点(わたしが母に従妹に関する情報を共有した)とこの事象という「点」を結んで考える思考癖が発動しているのがわかります。

「なぜ・どうして」この事象が起こっているのか? その原因・理由を過去に探している意識です。

 

 

母としては

「子供」が小さく手がかかるうちは、(そんなに)働かずともよい

「子供」が手がかからなくなったら、働いたらいい 

という母の世界における こうした方がいい があるのがわかります。

 

そういう母の世界から、従妹の在り方 に対して、「それでいい」「こうしたらいいのに」「それはよくない」と物申しているのがわかりますね。

 

これは、わたしの鏡であり、上記の2番目のわたしの思考は、わたしというスピリットが、わたしという自我に言いたいことなんだなぁ~と思いました。

 

領分侵害しまくりの自我様への御言葉ですね。

 

従妹と下の子とわたしでショッピングモールへ行った時間帯があったのですが

どういうやりとりの中で言ったのかはもう忘れてしまいましたが(観察者ほぼ不在・・)

下の子の言動に対して、「~はダメ」、「~したらいいね」、「~はよくないでしょ」という内容を発言しまくっているわたしがいました。

 

もちろん、子供の言動によっては、上記言葉を使う場面はあると思いますし、観察者が常駐していればもっといろんなことにその場で気づけるのでしょうが、、

ふと観察者が立った時、ずいぶんとわたしは、下の子の在り方に物申しているなぁ~と感じた瞬間があったのです。

 

他者の在り方、振る舞いや言動に物申したくなるのは、すべてわたしの「課題」です。

そこをもう一度意識したいなと思います。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました☆

それではまた!