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わたしが体調不良の間、仕事で合宿(笑)がありました。

4半期に一度、全社会議があって、アメリカ時間に合わせての会議なので、日本は真夜中の時間帯の会議になります。

 

その眠気と辛さ(2時間ずっと英語・・・(-_-;))に一人で耐えたくなかったのでしょうか、いつの間にやら

上司の一言から、その日はどこかに宿泊して、みんなで真夜中の罰ゲームを受けようという趣旨の合宿です。

(眠気と辛さをみんなで一緒に共有するという、罰ゲームみたいな合宿w)

 

ですが、先日のその合宿は、わたしは体調が全然万全じゃなかったので、合宿には参加せず、家から参加しました。

今回の宿泊地は、北関東の温泉宿でした。

 

合宿欠席のわたしに対して、同僚のIさんは、その日の午前中の会議(わたしだけ遠隔で参加)の時に

もし午後体調がよくなって出てこられそうなら、午後からでも温泉宿に来たらいいね、と声をかけてくれました。

 

わたしは結局不参加でしたが、翌日、すてきな雰囲気のローカル線に乗った他のメンバーの写真と共に、

Iさんは、「次回ははなさんも一緒に行きましょう!」というようなコメントをくれました。

 

 

わたしは、このIさんのわたしに対する声掛け、コメントに「嬉」の周波数を投影し、Iさんの気遣いコメント嬉しいなぁ~、Iさん優しいなぁ~と思考しました。

 

この時の嬉しさは、「Iさんが不参加のわたしを気にかけてくれており、メンバーに忘れ去られてない、受け容れられているような感覚、存在価値を認めてもらっているような感覚」からの嬉しさでした。

 

つまり、わたしの存在を認めてくれている、受け容れてくれている =承認欲求を満たしてくれる存在や場 に喜びを投影するという認識に創造構造です。

 

これがあるということは、承認欲求を満たしてくれる存在や場 と共依存の関係に陥りやすい ということになると思います。

 

実際、ある事象の観察において、承認欲求ではありませんが、「役に立っていること」に喜びを投影していたわたしに、ガイドは、だから○○に対して共依存があるってことだよね? 「役に立っている」=喜び を与えてくれる存在、場 との共依存 ということでした。

 

さらにわたしはIさんに対して「優しいなぁ~」と思考しています。

ひとり合宿に不参加のわたしが「疎外感」とか「寂しさ」を感じさせてないような声掛け、発言に対して「優しい」とわたしは感じています。

 

(この観察をしていた時、もしわたしがこの「寂しさ」を埋めてもらうことにものすごく飢えていたりしたら、Iさんのこと優しい♡とかなって、ちょっと好きになっちゃったりするとか、全然あるなぁ~と思いました(笑))

 

ということは、わたし自身も例えばその場にいる誰かが疎外感を感じているかもしれないと判断したら

その疎外感を感じさせないようにしようと無意識に言動することがあるということだし、

 

逆に、わたし一人だけその場の状況を理解できなかったりして疎外感を感じる(という幻想に嵌る)と、

その疎外感を打破しようと、例えば、誰かの話の途中とかでも、自我を出張らせて疎外感を失くす方向への言動を取りやすい、ということがあるな、ということだと観察しました。

 

 

以前、別の同僚が、家族の愚痴を言いつつも、「(そういう気にかけてくれる人がいるって)幸せなことですよね」と言っていましたが、

これもわたしの鏡ということでしたね。

「気にかけてくれる人がいる」に喜びとか幸せを投影する という意識の構造があるということになると思います。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました☆

それではまた!