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仕事(上司)に対して、あーだこーだと燻ぶっている感じを書いてきましたが、ふと、一緒に暮らしている母に対しては、、と考えたときに、常に出張りまくりだなと思ったわけです。

 

もちろん、セッションを受け始めてからは、母からするとわたしの「我儘っぷり」や「我の強さ」みたいのは表現上は減ってきているというか、柔らかい印象には少しはなっていていると感じているかもしれませんが

 

わたしの中では、母はわたしのある程度の我儘が通る人という認識で、いわゆる自我の思うとおりにいくことが多いので、「楽」を選べる最適な人だな、ということに

 

はたと気づいたわけです・・・

 

なんというか、今まで気づかなかったのが恐ろしいというか、本当に自我ど真ん中だと、いろいろが観えてないんだなぁ~と思います。。。

 

なぜそんなところに目がいった(意識が向いた)かというと、セッションで、「上司に対して適切な角度で鏡となるには(相手が受け取りやすいように盲目を提示するには)、自我の下がり切った位置から盲目を提示する」というアドバイスをいただき

 

これは、上司に対してだけではなく、母とか他の人に対しても練習というか、鍛錬していける、と言われた時に、

 

ふと、母に対してそんな必要はないよな~、わたしという自我の十八番=すぱっと明確にシンプルに伝える を母にやっても、母はわたしがそういう人だとわかっているし、そこにある意味諦めているので、今さらムカッとしたり、イラついたりしないんだよな~、だから、わたしは母に対して、遠慮なく出張りまくりでも過ごせてしまうんだ、、、という今更感満載ですみませんが、、気づきに至りました。

 

例えば、簡単な例だと、何かわたしが別の作業をしていたり、のんびりとしているところに、母から何かを依頼されます、瞬間的に、「えー」だったり、「後ででもいいよね?」と口走っている。心の声がそのまま出てしまっています。

 

母は耳が遠くなってきているので、それらの瞬間的な反応の声は聞こえてなさそうですので、あ、しまった、と思い直して、はい、今やります と伝え直すのですが、自我の今やりたくない がすぐに声に出ているのです。

 

一事が万事、そんな感じで、自我が恐ろしく出張っているじゃん、、ということに、今さら気づいたという次第。

 

これが、いわゆる「素」だということですね。自我が出張っているのが「素」。

会社とかだといわゆるパブリックな場なので、自制心というかそういう目が働いて、表現される行動は自我満載にはなりづらいけれど、プライベートではこれなんだなぁ~・・・

 

気づいたからには、歩を進めていかなければ・・・

 

そんな「素」=自我 が出放題の家→母との協働(共同)生活でこそ、いい鍛錬場ではないか、、と思っています。

(自我的には、家・プライベートくらい多少出張っていてもいいじゃない、という声があり、それがわたしの現在地ということですね orz)

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました☆

それではまた~