自分を好きだと叫びたい!〜日常をこよなく愛してみる・足もと日記〜 -2ページ目

自分を好きだと叫びたい!〜日常をこよなく愛してみる・足もと日記〜

良い子を目指して生きてみたけど、やっばりできなかった私の話。

「ああそうだ、ただ愛されたかった」と、受け入れたら見えてきた『足もとの幸せ』を発見する日記。

やっと心から、笑えてます。

何のことはない。とっくにそのまんまの私が愛されていました。

放置しながら、続けていこう!

 
 
とか思っている、今日この頃(*´w`*)
 
桜の前に咲いていた、黄色いミモザが印象的だった春。
 
 
どうも、足元エッセイストたわです♪おんぷ
 
 
 
 
さて。私事ですがい…、とか言って、いつでも私事しか書いちゃいないやんな笑
 
Facebookを今、止めております。
 
 
 
 
んで、今日はその考察。
 
 
 
平たく言うと、つまらんねんブタ 
 
 
という事です笑
身も蓋もないんだけどさ笑
 
 
 
 
いやいやなんかさ…、背中丸めて小さな画面に時間費やしてる己の姿が、どうかと思ったのよ。
こんなに空は広いってのにさ。
 
 
手のひらサイズの世界の向こうは、本当に広いのか?
そこに会いたい人は、本当に居たんか?
 
 
と、我に返っちゃったんだねブタ 太陽
 
 
 
 
 
ぶっちゃけ、好まないタイプの方も多くてね。
「そんな人を選り好みするのは、人間としてイカンやろ」という、いい人ぶった概念をまだ引きずっていたね。
 
それに加えて、多少の事は目をつぶって起業の結果を出したかったんだね。
下心ってヤツだ。
 
 
 
 
 
どうよ、そんな自分笑
 
 
少し先の未来に結果は出せるかもしれないけどさ、この瞬間がもう幸せじゃないじゃんね。
それって、勤めてた時の我慢と大した違いはないんじゃないの?
 
 
 
何がしたいねん、ワシブタ 
 
 
 
と、ツッコミ入れちゃったんだね笑
 
 
 
 
ちょうど、再度の断捨離中だった事もあってね、SNS止めたってわけだ。
 
 
 
無けりゃ無いでね。
 
 
 
読書の時間作れたり、
 
妄想時間作れたり、
 
ついでにお弁当も作れたりで、
 
時間の充実半端ないキラキラ
 
 
 
 
そんなのんびり流れる時間の川底で、ふと感じた。
 
 
 
 
 
 
 
何にシャカリキになってたんや、ワシ…ブタ ???
 
 
 
 
 
「とりあえず…」と、飛び込んだ仕事先が面白くて。
 
幸運な事にそこに好きな人が居て。
 
さらに幸運なことにお付き合いできちゃって。(これに関しては、未だに都合のいい幻に思えて、半信半疑である)
 
 
 
本当に一瞬先の事なんて、考えちゃいなかった。
 
今っていう一点しか、見ちゃいない。
 
…本来、時間の健全な使い方って、そんなもんかも知れない。
 
 
 
だってさ。
 
今までは、不安の中を進んでた。
どこかに焦燥感が流ていて、「動かなきゃ」という反重力みたいな力が働いてたんだ。
 
 
 
 
それが今がどうだ?
 
ぽけっとしている。
「動かなきゃ」も何も、「〜しなきゃ」を感じていない。
「やりたきゃやるから、ほっといてくれ」とすら、思っている。
 
でーん、としちゃってるんだね笑
 
 
そのゆとりと言うか、満たされ感はどうだろう?
まるで時間が何倍にもなったかのようだ。
 
のびたラーメンみたいに増えた、増えた太陽←もうちょっと例えアルダロ笑
 
 
 
 
 
 
 
結局、私がムキになってたのは、己の無価値観を払拭したかったにすぎない。
他人に認められる事で、自分を誇れると思っていた。
そういう観念だったんだね。
 
 
 
 
…むなしいのう!笑
 
 
 
なんじゃその、相対的価値観笑
 
 
 
 
 
人一倍、他人の評価を嫌いながら、それを追い求める矛盾。
ほ〜んと、コンプレックスの裏には、願望が隠れているよね。
 
 
 
 
アホさ加減に白旗をあげた時。
 
もう一度、自分堀りをしたくなった。
 
 
 
 
人間の一挙手一投足は、口じゃなんと言おうと「自分を好きだって叫びたい」からやっている。
 
 
違うと言いたくなりもするが、よーくよーくめくってみれば、そんな奥ゆかしい自分が居るもんだブタ 
 
 
 
怒るのは、涙より深い悲しみがあるからだ。
 
不感症は、悲しみより堪えられない痛みがあるからだ。
 
 
そういうものをトラウマとか、コンプレックスと呼ぶ。
 
 
軽度なものなら、愚痴や悪口、不平不満として現れている。
 
 
 
 
そうやって、自分を観察し直したくなった。
 
そしたらさ、画面開いてる時間を忘れちゃってた。
 
 
 
 
いいねも、コメントも、今の私には何の魅力もない。
読まれてなくて、むしろ構わないんだね。
 
 
ただ私の体から、外に出したいだけなんだ。
自分のために。
 
 
 
今は、方向性を決める事も避けている。
 
 
何をやっても中途半端な私は、結局どれも、やりたくないのを誤魔化してきたからだ。
本来、わがままだから、最後までやり通す事はできない。
嫌気がさしてしまうんだね。
 
うっすらと良い人の皮をかぶったまま来た。
厳密には、良い人の皮をかぶったつもりで来た、だね。
 
 
…とことん脱いでやる笑
 
 
 
人として最低!と言われるくらいに脱いでやる笑
 
 
最低!とか、わざわざ本人に言ってくる奴は、どうせコンプレックスの塊にすぎんしな。
どうでもいいわ。
 
 
つまり、誰しも本来は無双なわけだよ。
向かうところに敵なんか居ない。
幻想、妄想の産物。
あんたしか居らんねん。
 
 
 
という、デトックスを兼ねてブログ書きたいから、Facebookはやめたんですブタ 太陽
批判も、賛同も、共感も、アドバイスも、現状報告も、いいねの数も、何もいらない。
 
 
私は今、自分に向き合いたい。
そこにだけ集中している。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今日のエネルギー
混沌と春風

どうも、足もとエッセイスト たわです(๑╹ω╹๑ )

年末年始から、ちょいとせわしくしておりました。久々やな、ブログ
 
 
 
 
さて。
どうにも子供ってヤツは、母親の感情や信念に振り回されるもんですね
 
 
まぁ、それもそのハズで。
 
そもそも、まずは母親にギフトするために生まれてきてますから、仕方ありますまい。
 
 
「自分が生まれることで、喜んでくれる!」
 
そんな期待と幸福感を抱いて、生まれ出てくるわけです。
…あ、これは以前、ヒプノセラピーをしていた頃に体験したこと。
すべてではないにせよ、大概の方がこうした気持ちを追体験(思い出す)されていましたね。
 
 
 
て、ことで(= ̄ ρ ̄=) 
 
親の良きに計らおうとする生き物。
それが子供。
 
 
 
 
 
 
 
とは言え、その子供もいずれ大人になります。
 
 
 
 
 
親になりもする。
 
 
 
 
 
私は親になってませんけどもね
 
 
それどころか、独り立ちも満足にできちゃいない。
非常に情けないなぁ…と、常々コンプレックスでした(。・・。)
 
 
 
 
 
そのコンプレックスの裏には…
 
・ 恩返しをしなくてはならない。
 
・ このままではいけない。
 
 
 
 
 
つまり。
 
 
 
 
 
今の私じゃ、親に認めてもらえない
 
 
 
 
 
て気持ちが、セッティングされていたんだね。
 
 
 
 
 
「喜ばせようと思って生まれてきたのに…心配かけてばかり…」
 
 
そんな『しょぼ〜んな気持ち』が、自己評価を下げまくる
セルフイメージと言い換えてもいいでしょう。
 
「いや、私は親なんか関係ない」
「イイ歳なんだから、今更親の評価なんて気にしてない」
 
と、思ってました。
 
 
 
 
んが!
 
 
 
『切っても切れない、親子の縁』ってのは、このことですよ。
 
 
歳とろうが、死別しようが、実の親ではない人に育てられようが、揺るがないの。
たとえ親の顔を知らなくてもね。
もうDNAの問題なのね、きっと。
 
 
人の目が気になってるんじゃない、それによって親にどう思われるかを気にしてる。
世間の目とかカモフラージュにすぎない。それによって親にどう思われるかを気にしてる。
 
 
ここに反発したって意味がない。
本能だから。
標準搭載されてるんだもん。
 
 
・親が嫌い→親が自分を愛してくれない、もしくは愛してくれているとは感じられないから『嫌い』
 
・親なんて関係ない→親が自分に関心を持っていない、冷たい、もしくは関心を持ってくれているとは思えないから『こっちだって関係ないやい!』
 
・軽蔑する→自分に対する親の態度が正視できない。耐えられない。または、そんな親の生き方は悲しすぎて見るに堪えない。自分にはどうしようもできないので、見たくない。から『軽蔑して、少しでも意識の外に出そう』
 
・特に何も思わない→もういろいろ限界で、親の存在を忘れてしまいたい(ほどに傷ついた。)。
 
 
大まかにあげると、こんなところかなぁ?
 
 
 
 
 
 
気が付きたくないんだよね。
 
 
 
 
自分の腹にある本心って、だいたい気が付きたくない。
多くの場合、グロテスクで痛々しくって耐え難い悲しみだからね。
 
いつもイライラしてる、なんて時は悲しみに満ち満ちてるのに一生懸命自分を顧みないようにしてんだよね。
 
過去の私だけどもね
 
 
繰り返すけれど、すべての人に当てはまる、なんて言わないよ。
 
生物は常に可能性に満ちているからね。諸行無常が常だ。
どんな瞬間もゆるやかに進化しているし、可能性は拡大し続けている。
何事においても、100%はまずありえないよね〜。
 
 
 
 
 
ってことで、本題に戻ろう。
 
 
 
 
えっとね、まぁ腹のドロドロっちゅーか…
 
「側から見たら充分に恵まれてるんだろうけど、私は親に対して悲しいんだ」
 
と、受け入れたときにさ。白旗あげてさ
 
 
仕方ないよ。
喜怒哀楽は、相対的なもんじゃないもん。
自分のジャッジだから。
 
私の喜びは、私が決めるもの。
私のかなしみは、私が決めるものなの。
 
だから、「充分に恵まれてるでしょ!?」と言われたって、片腹痛いわけですよ。
 
 
 
 
やかましいわ、黙っとれ外野ぁ!
 
と、思って良いワ━ヽ(*´Д`*)ノ━ィ!!!!
 
言っちゃうと人間関係がきっと、面倒臭いことになるので思う程度にしておく
 
 
 
喜びも悲しみも、想像はできても同じには感じられない。
感じ取る感性は、その人のものだ。
 
 
 
あ。また話逸れた
 
ま、そんで。
 
 
 
 
 
悲しい自分に納得しちゃったらさ、
 
 
 
親の前で演じてる自分に気がついたんだよ。
 
 
 
子供の顔してる自分。
 
しっかりしようと弱いところは、見せないようにしてる自分。
 
 
 
 
 
…肩肘はってたのは、母ちゃんの前でだった。
 
 
 
 
そんな自分がね、急に『しょんぼりした大人』に思えた。
 
 
家族の前が素だとは、限らないんだねぇ。
 
 
 
気がついたきっかけは、今付き合っている彼のおかげ(。・ω・。)
 
…ちょと長くなるから、次回書こうかな。
 
 
 
 
どうも(。・w・。)


足もとエッセイスト たわです



相変わらず、バタバタと日常が過ぎ去っていきます。
…師走ですなぁ。




昨日、今お手伝いしている職場の人から「それだけの知識を活かしたいと思いませんか?」と聞かれました。


知識の内容は、腸セラピーやアロマテラピー、頭痛対処に関してなんですけどね(。・・。)





…前の私は、生かすために知識を仕入れていたんですよ。
だから、色々できます。





そして今、活かしたいとは、まーーーーーーーったく思わない




なんでかっちゅーと…




























この知識を使ってあげたい人にしか


使うの嫌だε=(。・д・。)






から←ヒドイ大人だ











いやもう、何度も言いますがね。



私、まったく優しくも、良い人でも、何でもないのでね。
俗物ですから(*´w`*)





誰彼構わず助けようとして、愛を乞う私はやめたんです。
嫌だなぁと感じるんです。
そういう自分が、善意の下に隠れているの。
咄嗟に動いちゃった!くらいが良いです。




人の好意を乞うと、人の好意を乞う人とつながるので、結局私の手には負えないし















身を粉にして人助けとか、まるでやりたくない。




…私の母は、身を粉にする人なんですよ。




で、子供の頃から思ってました。





















「母ちゃんを犠牲にして助けられても、


心から喜べない。



罪悪感で、むしろ苦しくて仕方ない。




こんなことなら、産まれてくるのやめたら良かった…」







あの頃、言語化はできませんでしたけど。


そういう気持ちを味わってました。




助けられたんだから、感謝もせにゃならんし、有難いはずなんです。



けど、苦味が先に立ってどうにも後味が悪い。




例えば、同時に崖から落ちそうな二人が居たとします。

俺は良いから!て、一人が犠牲になって、もう一人が助かったら…


どうですか?


その後の人生で、何回己を呪うと思いますか?
いっそ、あの時一緒に落ちたかった!と、何度神に吼えると思いますか?




大げさかも知れないですが、私にとっちゃそういうシロモノでした。





犠牲心って、ヤツは。




今も好みませんね〜。




できれば、関わりたくない部類のスタンス。










子供の頃は、母ちゃんの犠牲心で神様を恨みましたよ




なんで、人に助けられなきゃ生きられない生物を作るのか!と。





不完全すぎる!と、子供の頃から怒ってました





そして、単純に感謝できない己を恥じました。

セルフイメージの下がること、下がること

完全に自分は、人として欠陥品だと思いましたからね。






あ。今は、そんなこと思いませんけどね(*´w`*)


欠陥もあって良いしね
…いや、むしろ無いと…わざわざ人間やってる意義が謎というか…









子供にとって…





母ちゃんは無二の人なので、もちろん好きなのに同時に嫌いだったんですよね。




私を苦しくさせるから。



母ちゃんが犠牲になると、子供は苦しくて悲しくて、自分を呪うしかできないんですよ。



母親が健康的に自然でいることが、なにより子供の幸せにつながります。



自然体で自分を愛してくれていること。

母親を当たり前に幸せにできていること。




極端にまとめると、子供の幸せ、満たされている条件でこんなところです。







それでね。




色々とほぐれて、良いも悪いも自分の本心だけ採用する習慣が付いてきた今。






後味悪い人助けは、一切しません。




良い人と思われたい、
今がチャンス、




なーんてのが頭をよぎったら、即座に行動を止めます。











そうしたらね。











妙なもんですが、自分が心地いい日が増えまして。





なんちゅーんですかね?






いつもお日様浴びてるような、ぬくぬくした心地なんです。












そうするとね。











なにも意図してないけど、どっかで人の役に立つことが起こるらしく…











結果的に以前より、お役に立っているらしいです。









なんも考えてないので、みなさまがどうなったのか把握してませんが






助かったんなら、良いんでない?と深く聞いたりもしてません←几帳面さ皆無
ハッピーなら、いいじゃない。

















必要な知識ってのは、必要な場面で勝手に使われていく。





知識や経験をお金に換えることは、できますが。
それをやってみても、私は苦しくなった。
苦しくて、動けなくなって、結果の今ですからねぇ






もっと適当に呼吸して、もっと好きなことにのめり込んでいきます。




ええやないか、それで




大丈夫よ。
わがままに生きたとしても、人間て善意の塊だから。
基本的に。
自然とどっかで、繋がりあって補い合うから。







構えなくていい。








人助けってんなら、その『人』の中に自分も入れてやんなよ。









そんな風に思います。







生かそうとせずとも。







ただ率直に自分と手を繋いで、進んでく。




それしか、考えてません。








…ああ、そうだ。


こんな風に毎日を過ごしていたら、片想いが叶ってしまいました…なんでだ?




なにが起きたのか、未だよくわかっていないのですが…




完全に『ひょんなこと』からです。





素直に行動すると、想いはあからさまに伝わるわけですよね。




…たぶん、そんな感じなんだと思う

あと一年くらいは、余裕で片想い楽しんで…。
その先は、またそん時考えよ〜って思っていたのに。




人生、なにが起こるかわかったもんじゃない






心はハッピー、頭は混乱



















今日のエネルギー

根幹は、自分の本音。
凪いだ海のごとく、静かに開き直る