昨日、とつぜん梅雨があけた。


空と雲がはっきりしている。


そう思いながら自転車をこぐ。


通勤路、賀茂川の土手路傍には、ゆうすげ(というのだったとおもう)の花が


咲いていた。


やさしい夕方の匂いがする名前だとおもう。


ゆうすげ。



子どもアトリエ×アレクサンダー・テクニーク 風光景-ゆうすげのはな

前回、かいていたミルフィーユと藍染めの壺。



ミルフィーユは、胸郭・胸骨のあたり。


わたしたちが悲しいときやどきどきするとき、おもわず手をやる


そう そのあたりだ。


昨今は「こころはどこにありますか」とたずねても、


頭=脳をゆびさすひとが少なくないそうだけれど


(先日、京都のR大学でのあるゼミでもそうだった)


わたしはまだまだこころはこのあたり、と思ってしまう。



そして 藍染めの壺は、骨盤から骨盤底のあたり。


おなか、とわたしたちがおおきくとらえている そのあたり。





ミルフィーユには、感情が幾重にも幾重にも重なっているという。


悲しみ 哀しみ 怒り 絶望 がっかり しょんぼり 


そんな かなしみだけでもなく


うれしさ うきうき 喜び やっほー 感動 


あふれだすほどの慈しみ 愛しさ


そんな よろこびだけでもなく


もやもや しめしめ ぽつん くしゃ ぐしゃ ぽき 


ぼわぼわ ふわふんわり ほのほの


そんな 名づけられない たくさんの 思いというもの


情というもの それらの感覚


そんなものたちが ミルフィーユになっているという。


わたしたちは ただ、それらが 幾重にもかさなってある


それを みているだけでいいのだという。



この層は 美味しくないから取り除こう!


この層も 見た目が良くないから 消したい!


そんなことは しなくていいのだという。



重なっている、それがミルフィーユなのだから。




藍染めの壺=おなか こし おしりのあたりは、


もう果てしもない 深い深い井戸の底を覗いているようなものなのだという。


それは、きっと 怖い。


おそろしいようなきもちがする。


だって、底が見えないから。


じぶんで把握することがない空間。


ただただ深く ただただ ある と思うしかできないようなもの。




みどり先生は言った。


「ふかーい井戸の底を、畏敬の念をもって眺めるように、ひとにふれましょう、


と野口晴哉先生の整体では言うのです」



こわい。


その感情すら、その感覚すら否定しないで 


畏敬=おそれ という もう一段も二段ももっと 深い次元までふかめるのだという。



そして、ひとの身体にふれる、とは


そのような底なしの井戸、果てない壺への畏敬をもってのことだというのだ。



わたしはこの話をきいて、


安堵し、


空恐ろしくなり、


身震いするようなきもちがした。



わたしたちのからだは、どこまでも wonder 驚きに満ちている。


ミルフィーユと藍染めの壺は、それぞれに全然ちがうこと・質にちがいない。


それでいながら、おなじ何かをもっているようなきがしてならない。


ひとつの景色として、何かおなじで、そして、まったくことなるということ。




樹木の影の濃いこと。


風が草をゆらしていくこと。


それらとはまたもっと別に、高いところで


空を雲がゆくこと。


そのなかで ゆうすげが咲くこと。


どれもどれも この一瞬にあることなのだが、


それぞれのコントラストが、


胸を打つ。




ああ、梅雨明け、と思った。



追記:前回、コメントいただいた つTOMさん、ありがとうございました。