先日「遊ぶー♪」と言っていたのに、

今日は以前の思考癖に引っ張られて

ちょい落ちている私……。ショボーン

 

いらん!

焦りいらん!

不安いらん!

世間体いらん!

既存枠、遠慮いらん!

 

自分は

どこを見たいのか

何を信じるのか

もう決めているから、

ただの思考癖と分かっている。

 

分かっているけどね〜。

癖に戻ってくるんだよな。

 

分かっているからな〜。

癖を楽しんでいるのかな!

名残惜しいから、

もうちょっとハグしちゃう 的なハート

(いや、いらんけどね!サヨナラ!)

 

 

原因は分かっている。

とある技法を「できる」と思っていたけど、

「全然出来ない」

「楽しくない」

のに、できるようになろうと

ちょっと頑張っちゃったんだな。

「楽しむ」視点を欠いていた。

楽しくない頑張るモード要注意ですな!φ(・_・

 

 

 

さて、今日は迎え火を焚きました。

東京はお盆です。

 

先日は施餓鬼でお墓参りしました。

子供の頃は連れられて結構行っていましたが、

学生時代はお墓参りとか全く関心無かった。

でも、祖父母が亡くなったからかな、

行事ごとに行くようになった。

 

そうするとね、

とある感覚の芯が強くなるのを感じる。

 

 

その感覚とは、、

 

「ここに存在していい」感覚

 

もっと言うと、

 

「存在自体が愛されている」感覚

 

 

大人になると、

社会に必要とされる能力があるのか

家庭での居場所を確保

とか、そこに存在するためには価値という対価

が必要だと考えることが多くなると思う。

 

でも、子供の頃はそんなこと1ミリも考えない

というか思いつきもしなかった。

子供が「私は存在していいの?」なんて

考えていたら事案ですよね;

 

でも大人はそれをやっている。

そして、

問いの回答を自分以外にしてもらおうとする。

(他者と比較した時点で社会という自分以外)

 

それって、生殺与奪を他者に任せること

に近いと思う。

 

 

先祖を顧みる時、

生きている私達は誰もが子供になれる。

「連綿と繋がれてきた生命が自分にある。」

子供としてそれを感じるだけで、

 

私は、

存在自体が無条件に愛されて、

今ここにいる

 

その感覚の芯が手を合わせるごとに

無意識に強くなっていると思う。

 

お墓参りは体感型なので、

より強く感じるのではないかな。

 

そして、その感覚は

 ≒ 愛される存在の私

の感覚も形成すると思います。

代々系の家の人の雰囲気の違いは、

こういった所からも形成されているかも。

 

と感じた今年のお盆でした。

 

思考癖で世間体を求めるのも、回答を

自分以外に預けてるんだよねー。

私もまだまだです。。

 

 

 

本日もありがとう〜。

夜も暑いわーカキ氷

 ヒューヒュークール、クールクール♪

またねん タコ

 

 

HERO