あなたは、背がとっても小さい。
そして、まるで子どものように思いついたら口が何でも話している。
急に、何でも無い話を。
”女”をダシにしたような、「きゃー」とかいうシナが嫌いで、女たちが女をすることを潔しとは見ていない風がある。
けど、他者を非難したりはしない。
その人には、そうする何かワケが必ずあるから。
お義母さんの世話をしているが、決して決めつけない。優しい人だなと思う。
わたしも、非難された記憶がいっさい無い。こんなに怒り易く、不完全な男なのに無い。
それは、驚異的にワンダーだ。
誰も相手してくれなくとも、ひとりテレビに相手してもらってるし、
気分が沈むとふんふんと歌を口づさむ。
まっ、ヘナチョコなんだけれども、武士みたいな人。
他者に依存しない武士なのだけれど、手足が未熟児みたいでヘナチョコ。
で、そういう人と、昨日も散歩した。
梅雨時ですからね、湿度がむんむんと高い。
雨は止んでいて、日差しもあった。
わたしは、27歳でかのじょと出会い、以来うん十年一緒に生きて来た。
ということで、お年でもあるので、高温高湿にくらっとする。
バスで駅まで行って、駅から1時間あまり歩いて帰って来るだけ。
「今日も行こう」というと、「ええ」と言う。
毎回、帰って来れるかなとは思うけれど、いざ歩き出したら、もうなにがなんでも歩くしかない。
わたしは、へろへろと歩き出す。
毎回、じぶんのこころに気が付く。
こころが喜んでいる。嬉しがっている。
ああ、、とても、不思議なのです。
もう、何十年も生活してきたあなたと、こうして並んで歩くだけなのに。
いったい何が嬉しいのかがわたしには分からない。
でも、確かにこの胸はひどく嬉しがっている。
いったい、何がそんなに嬉しいのだろう?
意識は脳が司るけれど、胸は情感を、腹はエネルギーを担当する。
ひょっとして、わたしはいつも3者がばらばらなのかな。
歩き始めると、毎回、わたしは、横をあるくかのじょに口が言う。
「不思議なんだ。なんで、一緒に歩くと嬉しいんだろう?」
「そうねぇ、あなたはいつもそれを口にするわね」
「うん、とっても不思議なんだ」
「家に居る時とは何かが違うのね」
あって気が付いた。
一緒に並んで歩いてる。
わたしの左を歩くあなたと、わたしが100%相対していた。
もちろん、お互い前方を向いているけれど、わたしはあなたという存在に面していた。
ふだん、そんなことが無いんだと気が付いた。
スッポンポンで全身全霊であなたと向き合っていた。
そんなことは、出会った27歳の時だけで、以降ぜんぜん、なかったのかもしれない。
うまくお伝えできません。
50%と70%と、100%の向き合う程度の違いを表現できない。
家では、わたしは何か「している」。あるいは何かを「しようとしている」。
でも、歩いている時、わたしに何かをしようとする意図がありません。
テレビを見たいとか、何か食べよう飲もう、ゲームをしようとかが起こりません。
ただ、歩くのです。
何かを得ようとか、為そうとか、成ろうとかしていない。
日差しや風、湿度、木々のざわめき。
車、人、街並み・・・そういった情報は処理している。
けれど、わたし自身は行為の主体者ではないのです。
こうしよう、ああしよう、こうあるべきだという、自我が脱落している。
瞑想が迷走し易いのは、この主体者という感覚を落とせないからでしょう。
じっと座ってると足が痛い、腰が疲れたというシグナルと同時に思考が走る。
「何もしない」ということがとっても難しくなり、マインドに巻き込まれて行く。
でも、わたしは、あなたとただただ歩く存在になるわけです。
あなたを見ているから、あなたを受け取っているわけではない。
あなたと話をするから、あなたと話せているわけではない。
あなたがそこに居るからといって、その存在を確かなものだとは言えない。
隣にただただ歩くあなたがいる。
ただ、歩く時、裸のわたしは裸のあなたに相対する。
わたしという主体者感覚が落ちて、
汗が出てへろへろと疲れ、わたしとあなたとの区別もしなくなって行く。
歩くことでシロウトなりに瞑想状態に入っているでしょう。
その時、わたしはヘナチョコで小さなあなたという姿から、
その中にいるであろうあなたという魂に触れるように思うのです。
きっと、わたしが嬉しさに包まれる時、裸のわたしの魂が、裸のあなたのそれに触れている。
それは言葉を超えている。
言葉は思考だから、思考では捕まえられない次元に入っているでしょう。
それこそ、ワンダーだ。
関西への移住前後で、いっそうこの「嬉しさ」が頻発するようになりました。
あなたは相変わらず背が小さいのだけれど、お互い年を取りました。
どんなに大切な存在でも、いつまでもこうして一緒には歩けない。
それを胸は知っていて、ほろほろと喜びの涙を流しているのかもしれない。