地味なわたしもたまには舞台にあがってみたいっ。

でも、せっせと書いてもバズルどころか見て頂けない。文章がヘタなの?


もし、『誰も君のことなんか見てない』という事実を受け入れると、ずいぶん書き方が変わってしまうという。

意識のフォーカス先が変わるのです。

自分自身へではなく、読み手へと意識が張り替えられちゃう。

クモは自分で張った糸にがんじがらめになっていたのだけれど、ちゃんと世界を意識した糸の張り方をし出すという。




1.どういうことか


栗原 康太さんという方が書いていました。


自社のオウンドメディアやSNSでコンテンツを作成する上で、常に心にとめているという。

それは、『誰も君のことなんか見てない』ということ。

世の中の人たちは、自分や自社が発信したコンテンツやメッセージに興味を持ってくれない、という前提なんです。

https://x.com/kotakurihara/status/1792352063822905700?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1792352063822905700%7Ctwgr%5E3c078b0ec35829bd607bc2c25e41a6f78d3cf447%7Ctwcon%5Es1_&ref_url=https%3A%2F%2Fnote.com%2Fay_nakatsuka%2Fn%2Fn152023fc7e71


「コンテンツを見てもらえるという前提」を180度変える。

栗原さんは、「コンテンツを見てもらえない前提」、「プレスリリースはメディアに取り上げてもらえない前提」で、

どう届けたい人に届けるか、どうメディアに取り上げてもらえるか、を思考していく。

見込み客に見てもらえないから、企画を練るし、タイトルにこだわるし、

集客経路の設計を入念に行い、コンテンツ内の見出しや画像、文章にこだわる。

メディアに取り上げてもらえないから、リリースの切り口を工夫するし、

記者さんとのコミュニケーションに細心の注意を払い、リリースの見出しや紹介文、画像のクオリティにこだわる。

社内のプレゼンも同じこと。参加者は、あくびし、内職するのです。


で、彼は、『コンテンツやPR、SNS、プレゼンテーションなど“人になにかを伝える”領域は、

「失敗経験」がパワフルに活きる領域の一つで、

コンテンツ作成の前提を「誰も君のコンテンツなんか見てない」からはじめると色々な物事が一気に解決されていくのではないか』と結んでいました。



たしかに、彼のタイトルからして、わたしだって読みました。

奇をてらった不自然さは無い。

自分の痛い経験をベースに書かれている。

読み手との信頼を築きながら、大半の人が無意識に持っているであろう前提にチャレンジしてくる。

驚きとある種の学びを与えそう。

はて、自分はどうなんだろうかと考えさせる内容でした。

実際、わたしは今ここに書いています。

この記事は、読ませただけではなく、わたしに行動を促したのです。

それは、栗原さんが願ったことの1つだったでしょう。

彼は、単に”良い記事”を発表し自己満足したかったわけではないのです。




2.わたし・・が、解除される


このお話、誰も異存が無いと思います。

でも、脳の意識だけでは書き手に変容は起こりません。

わたしたちが、エネルギーで駆動され、また他者とエネルギーを交換する生き物だからだと思っています。



『誰も君のことなんか見てない』ということを受け入れるのは、屈辱的でした。

でも、事実が圧倒した。わたしは、観念した。

生きて来て、何回か『誰も君のことなんか見てない』ということを受け入れた経験がたしかにあったのです。

受け入れたその効果は、劇的でした。


今、4つのシーンがじぶんに浮かんでいるけど、受け入れたわたしはリアルに人たちの動きを見始めました。

「自我意識」がどこかにいっちゃう。なので、わたしは世界を見てるだけとなりました。

正確に言えば、自分自身も観察対象となってしまうから、自分が何をどうしたいと思っているかは知っていた。

知ってはいても、「自分」も「観察対象」の1つでしかありません。


周囲の人たち、そして「自分」という人の、それらの内面をそのままに見ている状態となりました。

批判や評価はなくなり、解釈が落ちました。

聞いて欲しい、認めて欲しいという願望も落ちました。

何より一番顕著なのは、目の周囲の筋肉、アゴと舌、口まわりの筋緊張がゆるんでいたことでした。

エネルギー的にミニマムとなったことを「わたし」は不思議に思いはしたものの、はっきり気づいていた。



『誰も君のことなんか見てない』。

極端な言い方をすれば、絶望したから欲と恐れを手放した(諦めた)というより、

目の周囲の筋肉、アゴと口まわりの筋が緩んだから、自我が落ちたという感じでした。

呼吸も深くゆっくりに。じぶんがどんな呼吸をしているかに気が付いていた。

4つのシーンはいずれも、「わたし」がピンチに見舞われ、絶対絶命だったのです。

ここらへんの体験は、人それぞれでしょうが、わたしの場合は、「アゴ外した観察体」に成ったという感じでした。




3.目力、緩むと


どうなるとかというと、それぞれの人の動きを見て、じゃあこうすればいい、こう言えばいいと「分かる」。

まあ、「お告げがくる」わけです。

来たお告げのままに、なんの躊躇も無くわたしは言動してました。

解釈に意識を使っていないので、起こっていることのリアルを正確に捕まえていたと思う。

だから、何の遠慮も躊躇も無い。

言うべきタイミングで、言うべきことを、サラリ言っていた。


『誰も君のことなんか見てない』。

ただし、わたしはたった1つのことを願っていました。

どうせ、わたしは誰からも好かれないし、支持されないけれど、

であるならば、せめてここに居ないといけない間は、人たちをすこし支援したいなって。

たとえば、みんなが元気づいたり、新しい気づきを得れたり、楽しんでいただきたいなって願った。

もうこの身はどうしようもない。変わらない。けれど、せめて、と願ったのです。

惨めな「わたし」を受け入れ、せめてと出来ることだけをした。


もはや、捨て身ですることです。

自分自身も含めた人たちとの間に「葛藤」や「齟齬」が起こりようも無い。

せめて、あなたを喜ばせたい・・。

満身創痍ではあるけれど、わたしは、じぶんを閉じはしなかった。

そういう者が良かれとこころ開くので、みんなも開いて受け入れました。

いや、みんなはわたしの話を聞きたがりました。

わたしのこころは絶望したのに、世界はするすると動いた。





4.見てもらえていないという事実を受け入れる難しさ


わたしは、読んでいただけないとへこむ。

こんなに良い話なのにぃ・・。いや、ぜんぜん、良い話ではないのです。

”わたし”が良いだろって思ってる話ではあるが、良い話かどうかは読み手が決めるわけです。

その読み手のことなんかほとんど考えていないのです。

どうぞ、届きますように、なんて祈ってもいない。

書けば、読まれると尊大にも思ってる。



だから、”わたしが話したい話”、でしかない。

わたしは、”わたしが話したい話”をなぜ読んでくれないのかと不安になったり、怒ってる。

わたしは、見て欲しいから、こうして書いている。そこが問題の起点なのです。

ほんとは、読まれるように書かれたら、読んでいただけるものかもしれないのです。

それを壊しているのが、ほかならぬわたし自身だったという話です。



でも、たぶん、エネルギーの配分まで変えて、ひたすら願うなんて、普通は出来ません。

わたしも、そんな状態滅多に来ません。

いや、書くということが、それほど真剣ではないのです。

だったら、真剣に悩む方がおかしいのです。もっと、お気楽に書き散らかすか。。





5.もっともな解決法


『誰も君のことなんか見てない』。

見てもらえないという現実に対するもっとも強力な対応手段は、意外にも、その事実を受け入れるということに尽きる。

先の栗原さんだけでなく、既に多くの文章書きたちがこれを指摘しています。

解決策は、ぜんぜん見てもらえないという前提に立って書く、ということだと。

徹底的に、誰も読んではくれないという所から、書いてみてね、という。

それでも伝えたいことがあるのか。

きっと、文章が真逆の書かれ方となる。


先ず、「読んでくれたのなら」という「色気」(期待という欲)が落ちる。

あれもこれも書きたいという「無駄」(自己本位さ)も脱落する。

せめてお伝えしなくっちゃという、たった1か所に向かってサラサラと紡がれる。

結果、分かり易く読み易い文となるのです。

村上春樹さまのエッセイが際立って読み易いのは、彼に切実な祈りがあるからでしょう。

『誰も君のことなんか見てない』という意識なら、書き手は無駄なく読み手にエッセンスを伝え始めるというわけです。



読み手は、この人、自分の虚栄のために書いていないのだなって分かる。

自己満足のために書き、そして読ませたいのじゃない、と。

と、ようやく読み手のこころが開く。たぶん。

真剣に願い差し出されたものを人はなかなか無視できないのです。

せめてこれだけはと、出されたミニマム。

書き手は本気、なのです。

『誰も君のことなんか見てない』というのは、卑屈さではなく、書き手と読み手を結ぶ魔法の呪文なわけです。



書きたがるわたしには、日常の混乱、無念さからの解放を願う気持ちが根っこにあるでしょう。

でも、読み手もそうなのです。

読むことで浄化されないまでも、こころ整うのを願っているのです。

そして、書き手のために誰も読まないという事実がある。

お付き合いという特殊な関係はさておいて、これは冷徹な事実。

けれど、でも、素晴らしい起点を与えてもいます。


嫌だけど、受け入れないといけない。

そういういうことがこの世にはいっぱいあってな、と黒猫ルドルフはいいましたほろほろ。