天気の子がとてもよかったので感想をここに詰めます…。
ネタバレかも。
「オトナ」と「コドモ」
「人」と「自然」といった…セカイを区切る言葉が多く使われていたように感じました。
どちらも昔、そして未来にはいる世界です。
オトナとコドモ、何がそんなに違うのか。
言うまでもなく、本当にセカイが違うような錯覚さえするほど…今のオトナが背負う世界は大きく淀んだ場所にいる人間には光など見えないほどに重いものなのだと思います。
大切なものができて、失っていくたびに歩き出せなくなるような…そんな象徴のような人物も出てきます。
ではコドモは、なにがそんなに違うのか。
古くからコドモは「神様からの授かりもの」なんて言葉が使われるほど神秘的で、無垢なものと認識されています。
(実際劇中では白い服を着ていることが多かったような気がする。)
何にも染まっていない、オトナの汚い世界も辛いことも彼らには関係ないから強いのです。
実際物語冒頭から、主人公たちの周りには嫌な事件の描写も嫌な情報も蔓延っています。
子供の理屈を大真面目に法律や世間を後ろに背負うオトナにぶつけて、大人ぶって自分たちだけが孤独のように感じながら、必死で逃げ回って、それでも…!とあがき続ける。
泥だらけで傷だらけでみっともなくて恥ずかしい。
そんな、僕には輝いて見えるほどの力強さと、どこかに置いてきた生きるということの美しさをたしかに彼らは持っていたのです。
だからオトナとコドモの狭間にいる僕は心動かされたし、彼らに影響されるオトナもいたのです。
主題歌の「愛にできることはまだあるかい」にも注目するとまた面白く感じました。
コドモが軸の作品なのに、どうして“愛”なんだろうか、と映画を観終わって気づきました。
初恋なんて言葉があるように、コドモは恋、オトナは愛と僕の中ではそういう風に分けられているイメージがあったから。
きっと、今のオトナには愛する、ということは出来なくなっているのではないでしょうか。
少なくとも小さな頃に無邪気に発していたような不変の気持ちは、もう持てないように感じます(家族愛なんかは別として)。
それは昔よりも視野、目の届く範囲が広がって自分の意思が揺らぐような言葉を見つけやすくなっているからなのかも。
そう考えると主題歌の“愛”はコドモの語る不変で、お伽話のような現実離れしたものなのだとわかります。
主人公たちの気持ちはそんなもので、視野を広げて仕舞えば吹いて飛ぶような地に足ついていないもの、だからこそオトナではできない事を成せる。
秒速の、変に大人びて心を殺せる彼ではいけなかった。
言の葉の庭の子のようなこころで、君の名はの瀧くんのような必死さで…社会や空というかたちなきものに向かっていける。
そんな彼らをみてオトナでいることに慣れたり、嫌気がさしていたキャラクターたちがコドモに戻っていく。
世間も恥も未来も、全部頭から離れて…。
どこか生活に息苦しさを抱えているような人にこそ、この映画は観てほしいなって思いました。100てん!
書きたいことが多すぎると纏まらないとはこのことだなってくらいすごいことになってしまった…反省。