フランス時代
プラティニは10代プロデビューを果たす。ナンシー1972年~79年にかけて215試合に出場、127ゴールを記録した。この間、2部リーグ優勝とクープ・ドゥ・フランス制覇を経験している。
そして1979年、ナンシーから当時のフランス最強チームであったサンテティエンヌへ移籍。レ・ヴェール(緑軍)での3シーズンで145試合に出場して82ゴールを記録、1981年にはリーグ優勝も達成した。
ユヴェントスでの輝き
そんな彼の才能に、ユヴェントスとフィアットのオーナー、ジャンニ・アニェッリは惚れ込んでいた。当時のビアンコネリは国内では圧倒的な強さを見せていたが、1977年のUEFAカップを除けば欧州タイトルを一切獲得できていなかった。だからこそ、彼の力が必要だったのだ。
アニェッリは、自らの悲願を叶える形で1982年にプラティニを獲得。さらに、伝説的なポーランド人FWジビ・ボニエクに加え、1982年スペインワールドカップ優勝メンバー6名(ディノ・ゾフ、クラウディオ・ジェンティーレ、アントニオ・カブリーニ、ガエターノ・シレア、マルコ・タルデッリ、パオロ・ロッシ)が揃うチームに最高の才能を加えている。
トリノでの生活に慣れるまで数カ月かかったが、最高速度に達したプラティニは一度も振り返るこなく、まさに伝説的な旅路へと踏み出した。ユヴェントスでの5年間で、彼はスクデット2回、コッパ・イタリア1回、欧州チャンピオンズカップ1回、インターコンチネンタルカップ1回、カップウィナーズカップ1回、UEFAスーパーカップ1回を獲得した。ビアンコネリでの224試合で、フリーキックやPKからヘディング、両足での強烈なシュートまで、あらゆる方法で104ゴールを叩き出した。
プラティニの卓越した技術は、ジョヴァンニ・トラパットーニ監督の現実主義と、当時のユヴェントスを支えたイタリア人中核選手の勝利への執念と見事に調和した。彼はチームの要となり、国内での連勝を続けながら欧州でも成功を収め、チームを新たな高みへと導いた。この活躍が「オールド・レディ」の国際的な地位確立に貢献したのである。



