平清盛(30)『平家納経』感想 | Ata blog

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色々

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崇徳天皇(すとくてんのう)
(元永2年5月28日(1119年7月7日)~長寛2年8月26日(1164年9月14日))
第75代天皇(在位1123年~1142年)。退位後は新院、讃岐院とも呼ばれた。諱を顕仁(あきひと)という。

【配流先での生活】

『保元物語』によると、崇徳院は讃岐国での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(法華経•華厳経•涅槃経•大集経•大品般若経)の写本作りに専念して(血で書いたか墨で書いたかは諸本で違いがある)、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河院は『呪詛が込められているのではないか』と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って写本に『日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん』『この経を魔道に回向(えこう)す』と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている。

一方『今鏡』『すべらぎの中第二 八重の潮路』では、『憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ』と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。また配流先で崇徳院が実際に詠んだ『思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを』(『風雅和歌集』)という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても怨念を抱いていた様子はない。承久の乱で隠岐国に配流された後鳥羽上皇が、『われこそは にゐじま守よ 隠岐の海の あらきなみかぜ 心してふけ』(『遠島百首』)と怒りに満ちた歌を残しているのとは対照的である。

崇徳院は、配流先の讃岐鼓岡木ノ丸御所で国府役人の綾高遠の娘との間に1男1女をもうけている。

【怨霊伝説】

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讃岐に流された崇徳上皇(歌川国芳画)
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『椿説弓張月』より崇徳上皇が讃岐で崩御し、怨霊になる瞬間を描いた一場面(歌川芳艶画)

『椿説弓張月』より崇徳上皇が讃岐で崩御し、怨霊になる瞬間を描いた一場面(歌川芳艶画)
保元の乱が終結してしばらくの間は、崇徳院は罪人として扱われた。それは後白河天皇方の勝利を高らかに宣言した宣命(『平安遺文』2848)にも表れている。崇徳院が讃岐国で崩御した際も、『太上皇無服仮乃儀(太上皇(崇徳上皇)、服仮(服喪)の儀なし』(『百錬抄』)と後白河院はその死を無視し、『付国司行彼葬礼、自公家無其沙汰(国司を付けてかの(崇徳上皇)の葬礼を行い、公家よりその沙汰なし)』(『皇代記』)とあるように国司によって葬礼が行われただけで朝廷による措置はなかった。崇徳院を罪人とする朝廷の認識は配流された藤原教長らが帰京を許され、藤原頼長の子の師長が後白河院の側近になっても変わることはなかった。当然、崇徳院の怨霊についても意識されることはなかった。

ところが安元3年(1177年)になると状況は一変する。この年は延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなった。『愚昧記』安元3年5月9日条には『讃岐院ならびに宇治左府の事、沙汰あるべしと云々。これ近日天下の悪事彼の人等所為の由疑いあり』とあり、以降、崇徳院の怨霊に関する記事が貴族の日記に頻出するようになる。『愚昧記』5月13日条によると、すでに前年には崇徳院と藤原頼長の怨霊が問題になっていたという。安元2年(1176年)は建春門院•高松院•六条院•九条院が相次いで死去している。後白河や忠通に近い人々が相次いで死去したことで崇徳や頼長の怨霊が意識され始め翌年の大事件続発がそれに拍車をかけたと思われる。崇徳の怨霊については、『吉記』寿永3年(1184年)4月15日条に藤原教長が崇徳院と頼長の悪霊を神霊として祀るべきと主張していたことが記されており、かつての側近である教長がその形成に深く関わっていたと見られる。精神的に追い詰められた後白河院は怨霊鎮魂のため保元の宣命を破却し、8月3日には『讃岐院』の院号が『崇徳院』に改められ、頼長には正一位太政大臣が追贈された(『百錬抄』)。

寿永3年(1184年)4月15日には保元の乱の古戦場である春日河原に『崇徳院廟』(のちの粟田宮)が設置された。この廟は応仁の乱後に衰微して天文年間に平野社に統合された。また崩御の直後に地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても官の保護が与えられたとされている。

怨霊としての崇徳院のイメージは定着し、近世の文学作品である『雨月物語』(「白峯」)、『椿説弓張月』などにおいても怨霊として描かれている。

その一方で後世には四国全体の守り神であるという伝説も現われるようになる。承久の乱で土佐国に流された土御門上皇(後白河院の曾孫)が途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際にその霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて上皇と都に残してきた家族の守護を約束した。その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇が鎌倉幕府の推挙により皇位に就いたとされている。また、室町幕府の管領であった細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている(ともに『金毘羅参詣名所図会』•『白峰寺縁起』)。

明治天皇は慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建した。

昭和天皇は崇徳天皇八百年祭に当たる昭和39年(1964年)に香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせている。


【視聴率(ビデオリサーチ調べ 関東地区)】
~第1部~
第1話17.3%、第2話17.8%、第3話17.2%、第4話17.5%、第5話16.0%、第6話13.3%、第7話14.4%、第8話15.0%、第9話13.4%、第10話14.7%、第11話13.2%、第12話12.6%、第13話11.3%、第14話13.7%、第15話12.7%、第16話11.3%

~第2部~
第17話13.9%
第18話13.5%
第19話14.7%
第20話11.8%
第21話10.2%
第22話11.0%(関西地区ではついに9.2%!!)
第23話11.6%
第24話12.1%
第25話10.1%(大河視聴率歴代ワーストタイドクロ)
第26話13.2%
第27話11.7%
第28話11.2%
第29話10.7%
第30話11.4%←今回はここ

~第3部~
第31話7.8%(大河ドラマ史上最低視聴率記録王冠2王冠2王冠2)
第32話10.7%
第33話9.3%
第34話11.1%

iPhoneから感想書くのは初かねニコニコまた1桁記録かえ。
視聴率も過去最低だし平均視聴率も過去最低だろうウサギ
まだiPhone使いこなせていないのもあるだろうがAndroidのが書きやすいな
一長一短あり好みの問題だろうが。
iPhoneアプリは有料が多いな
必要そうなのはダウンロードしたがブタまだ使いこなせてないな
という感じでiPhoneから感想

【30話感想】
30話はすでに観ていたテレビリボルバー井浦新の崇徳上皇はかなり好演だったウサギ崇徳の呪いは信じられてきたこと。崇徳の恨みつらみ、不遇の最期を演じた井浦新の演技力が光っていた。
平治の乱に勝利した清盛。崇徳上皇は讃岐に流罪になっていた。明治になって明治天皇は崇徳上皇の御霊を京に呼び戻し白峯神宮創建したぐらい有名な怨霊なんでないかなウサギ
最期は髪も爪も伸び放題

後白河上皇と滋子の間に憲仁親王が誕生。皇子誕生で清盛は祝いの品を調達プレゼント
時忠は教盛、基盛を巻き込んで憲仁を東宮、次の天皇にする計画をたてるが二条天皇にばれてしまい官職返上、解官プンプン

崇徳上皇は反省、死んだものへの供養の為、五部大乗経を作成し京の後白河上皇へ送ったメモ…後白河上皇は呪詛が込められてるのでは?ということで受け取らず返品パー
崇徳上皇は怒り狂い舌を噛み切った血で恨みを書いたぐらいと言われるから相当な怒りだったんだろうね
基盛はあっけなく死去ドクロ西行は高野山にいた時に怨念の塊が讃岐の方角から観たとドクロ讃岐の院の怨念だとドクロ
リボルバー井浦新の崇徳上皇は怒り狂い中プンプン
藤原忠通は清盛に嫡男•基実を清盛の娘婿としてほしいと。
藤原摂関家の衰退と清盛がいかに力を持っていたか。
藤原忠通は翌年亡くなったがこれも崇徳上皇の呪いて噂が当時からあったのかねドクロあと藤原頼長の呪いもドクロ
清盛は厳島に経典を奉納するとメモ
一門の繁栄、志半ばで死んで行った魂を鎮める為、経典は33巻で一揃え、観音菩薩が三十三身に姿を変え人々を救済する為にちなんだ数。
金はいくらかけてもいい豪華な経典¥¥¥
時忠は二条天皇呪詛で出雲へ流罪に船
当時の一流の職人、書家に画家、至高の技と材料、一国の技芸の忰を凝らした33巻の経典が完成¥¥¥
そこに注がれた莫大な財と労力、強い願いと祈り、平家にしかあたわぬ''平家納経"¥¥¥
厳島に奉納に行くことに船
そこに怪しい雲行き、嵐の予感、崇徳上皇の呪いであろうかドクロ船
嵐だが経典は平気なのかね
崇徳上皇は天狗というよりゾンビと化してきたんだけどプ
部屋は荒れ放題、完全にゾンビ(笑)
一見、一時期の浅 野 忠 信状態(笑)
しかし崇徳の最期はそこまで悲惨だったのか、疎まれた、自分が世の頂に君臨できなかった、蔑ろにされた、髪も爪も伸び放題だった
まぁ相当悲惨な状態だったのかね

清盛一行は無事に経典を厳島に奉納ウサギ清盛は博多を都の隣にもってこいという言葉。隣にもってくる船

第2部終了ニコニコ

【清盛紀行】
"鼓岡神社"
~香川県坂出市~
保元の乱に敗れた崇徳上皇は都を追われ讃岐国に流罪となった。
上皇が乗った船は松山の津という港に着いたと伝わっている。崇徳上皇の御所があった場所に立つ鼓岡神社。
里人は上皇がホトトギスの声に都を思い出して寂しくならないようホトトギスを追い払ったという。
里人に惜しまれながら崇徳上皇はこの世を去った。上皇愛用のおわんを埋めたとされる場所には今も花が絶える事はない。上皇供養のため建立された頓証寺殿。西行もこの地を訪れ上皇の数奇な運命に涙したという。
崇徳上皇は今も地元の人々に敬われ親しまれている。

~啼けば聞く 聞けば都の恋しさに この里過ぎよ 山ほととぎす~

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