アトリエ優香(ゆうこ)の日々

日本タティング協会の東京講習会6月22日の内容はこれです。


故生田光子先生の所でタティングレース修行をされた方なら

おわかりになる部分がほとんどですが 個性的な作り方を多用しました。


だからと云って 超高度なテクニックを多用した訳ではありません。

リング&チェインの作れる方なら 是非学んで欲しいと願って

日本タティング協会での授業だから 思い切って東京講習で

出してみる気持ちになったのです。


私に出来る事は 皆さんへ 技術をお伝えすることだけです。

(宗教勧誘のように書きましたが ちがいますよぉーー!!)








数日前 故生田光子先生のお話を他の方としていました。

「書籍に生田先生 全部残して下さらなかったのねぇ。」という

話になったとき「そうねぇ・・・」と返事していたのですが

思い出したのです。先生に個別に呼び出され 言い聞かされた事を・・・

内容的には こういう内容でした。


「書籍には全部残しません。

 買えばすべてが習えると思うのは浅はかです。

 個別に頑張る人だけが習える技があるのは当然です。


 授業程度で習えるのは タッチングのうわべだけで

 区民講座でも教えきれません。

 こうやって個別授業を受けている人にも伝えきれるのか

 分からないけれど やる気があるようなので指導しましょう。


 あなたも製図だけを見て 全員が作れるように描かなくて良いのです。

 講義を受けた人だけが分かるように 大事な部分は描いてはなりません。

 真剣に学んだ人間だけに技は託せば良いのです。」


だから書籍に残っていないことが多いのです。

すべてを書かれていたわけではないのです。


個別授業を受けられるように すべての手配をして下さったのは

松井さんと望月さんでした。私が受講できなかったときの分は

先生がご帰宅された後 お二人から習いました。


その後 色々とあったけど13年間 年に7~8回は最低行けるように

努力して頑張れたのは いつも庇って下さったお二人と交通費を

補助して下さった熊谷さんがあったからです。

3人とも鬼籍に・・・覚悟は決めていても 動こう!と書いても

完全には動ききれなかった現実がありました。



一時期タティングレースは日本では衰退し 学術的にも記録が

抜けているのです。口述での指導だけしか残って居ず 

現在ネットで検索してもすっかり抜け落ちた部分は過去の記録が

出てくる訳もなく勉強できる状態ではないのです。


ビーズタティングレースにしか興味の無かった私にしか

指導されなかった部分も数々あるのです。

記録がないと云うことは 独学不可能&勉強できないのです。


日本独自の技法での 緻密&正確なビーズタティングレース。

自分の中で もう少し整理しないと メモ書きは

先生の授業を片目で見ながら 片目で書いた状態の

幼稚園児の落書きより酷いものしか 残っていません。

なので少しずつですが デザインの中に組み込み出せるようにします。







昨年末 心がぽっきりと折れた後 少しずつ気持ちが回復して行く中で

周りの支えもあり 自分の進むべき道が分かってきました。

そして 先日 数年前からのモヤモヤが晴れ渡った時 

「私は私の道だけを目指して完全に進もう。」と決め

ご隠居さん宣言して 心が軽くなったのです。

伝承者であるべき自分が少しだけ自覚出来たのでした。



日本でタティングレースが創成した頃(江戸時代) 宣教師の方から

タティングレースを学ばれた方のお孫さん(1901年生)制作の

ビーズタティングレースネックレスを受け取ったのも縁でしょう。

お孫さんに習われた方から 動かせないシャトルを特訓して頂き

それでも出来ずに 泣きながらシャトルを練習していたのです。


その後の故生田光子先生との縁 つながってきたタティングレースへの思い。

残りの人生は関わりたくない事には 関わらないぞ。

私には関わらねばならない事があって その為だけにがんばる。

江戸~明治~大正~昭和・・・バトンを渡すのは日本タティング協会に!!

そういう風に出来るよう微力ながら頑張ります。