宇宙戦艦ヤマト2199 | アスラビットのブログ      .

 お越しいただき、ありがとうございます。

 大変ご無沙汰しております。
 ペタ等、大変失礼をしております。
 
 現在は5月6日を目標としたプレスリリースに向け、リリース文の準備、ホームページ更新の準備、アンケートフォーマットの作成などを行っております。

 また、リリース発表内容とは別件の営業活動に向けた資料・サンプル作り、日銭を稼ぐお仕事など、毎日を精一杯に過ごしております。

 このところ、「生きている」事を実感する毎日です。


 さてさて私生活編では、ジョジョTVアニメ版の最終回のレビューもまだ書けていないのですが、4月からのアニメの話をしますと、最も注目していたのは「宇宙戦艦ヤマト2199」です。

 ヤマトは、アラフィフのサブカルファンには、「普通視」出来ない「特別な」存在と言えます。

 しかしながらヤマトに対して特別な感情を抱ける世代は、若くても、もう45歳以上と思われ、更には作品の著作権を巡り、過去に制作陣の間で悲しい諍いがあった事も勘案されてか、作品の登場人物は、(方便かも知れませんが)10代、20代の若い層にも刺さる事を指向し、良く言えば垢抜けした今風のキャラクターにリニューアルされました。
 しかしこの時点で、作品を構成していた、何か重要な「芯線」が、失われてしまったように思います。

 思えばウルトラマンシリーズでも、円谷プロとウルトラマンをデザインした成田亨との間の悲しい諍いがあり、成田氏の手を離れてからのウルトラマンのデザインが、だんだん成田氏の意図やコンセプトから乖離してデコられていくのを目にするのは非常に悲しかったのですが、今回のキャラ改変には同じような悲しみと無念さを感じます。

 この手のリメイク作品でいつも感じるのですが、キャラ設定(アニメでは絵柄みたいな事も含めまして)や、科学・技術設定や、当時の人々の価値観のようなものを、たいていはリメイク時の「現代」に置き換えてしまい、違う作品になってしまう事が良くあり、しかもそれはほぼ100%、悪い方へと転ぶのですが、今回もそんな匂いが初回から濃厚に漂ってきております。

 自分がリメイクに思うのは、絵柄や設定、その時代の人々の価値観のようなものには一切手を加えず、単純に映像技術のみを最新のテクノロジーに置き換えるという作り方をしてくれないかと、いつも思うのですよね。

 例えばヤマトのような作品では、科学考証などは現代で考えれば嘘があったり穴だらけのままでも、当時の設定をそのまま用い、人々の価値観も当時のまま、そして絵柄などはいじらなくても、表現の際にはCGやデジタル合成、サラウンド音声などをガンガン使いますよ、という感じですね。

 この感覚に近いものとしては、2~3年前の「あしたのジョー」実写版がありました。
 白木葉子の設定とかがいじられていたので完璧な理想形ではないものの、作品の世界は2010年代ではなく昭和40年代前半、登場人物の価値観や倫理観みたいのも、昭和の人のそのままです。

 アニメの「あしたのジョー2」は、時代設定が放送されていた当時の昭和50年代になってしまっていて、ジョーが全自動式パチンコを打っていたりして、そこが永らく残念に思っていたので、この実写版は大変好ましく思いました。

 それでいてボクシングの試合のシーンなどは、最新のカメラ器材やデジタル処理を用いて、当時では作れなかった、迫力ある映像を実現していました。

 これぞ、自分の見たかった「リメイク」で、自分のような「リアルタイム体験者」だけでなく、今の若い人にも、昭和40年代の空気、熱量を疑似体験できる作品として、意味あるものになっていたと思います。

 2199の出渕監督は、「森雪が一人でレーダー操作も医療担当も行うのは軍の組織として不自然」といった感じの理由で、その役割を色々なキャラに割り振ったようですが、そもそもが、まだまだ男社会だった時代の作品で、「紅一点」という言葉が日常的に使われていた、そんな価値観、そんな時代の作品であるわけで、清濁合わせてそれをそのまま再現して欲しかったですね。

 森雪は、ヤマトのクルーでただ一人の女性隊員、「紅一点」であった事に様々な意味が含まれていたわけですから。この設定こそが、色濃く昭和の匂い、価値観を含有しているわけですから。

 やっぱり名作と言われるものは、その時代の空気を濃密に吸っていますから、その空気の中で再現していただかないと、全くの別物になってしまうと思うのです。別物を作るなら、何のしがらみも無い新作の方がいいわけで。

 というわけでリメイクの難しさについて考えてみました。

 宜しかったらまた、思い出された時で構いませんので、更新されているかどうか覗きに来て下さい!