EUが日本と交渉中のSPAに、人権条項を盛り込んだことによって、再びというか、やっとというか、死刑問題がホットなトピックに浮上してきたようです。
改めて死刑廃止論の主張を整理する記事も見かけます。
その中で、私には不思議でならないことがあります。
「国家だからといって『殺人』は許されない」というのが、死刑廃止派の論理の一つだということです。
殺人は重罪である。それならば、なぜ国家は死刑という殺人を犯すのか? それは許されるのか? というのが死刑廃止派の倫理だということです。
なるほど、素朴でわかりやすい。
しかし、一応死刑廃止論者のはしくれであるかもしれない私はそんなことは言っていません。
今まで一度もそんな甘いことを言った覚えはない。
そうではなく、端的に「国家には国民を殺す権利はない」と言ってきただけです。
死刑囚に情状酌量の余地があろうが無かろうが、生い立ちがどうだろうがそんなことは関係ない。谷垣法相は、「残虐非道な罪を犯した死刑囚二死刑を執行するようにしたが、死刑囚の生い立ちを見ると、みな不幸な人たちであったと思う」などとおっしゃっていましたが、単に政府には、国民を殺す権利がないと言っているのです。
歴代の法務大臣は「個人としての私は死刑を執行するのは苦しい、しかしこれが法務大臣の職責だから死刑にせねばならない」と、国家の義務として死刑を行うことに何ら疑問を挟まない言説を聞くたびに、『ああ、前提となっている民主主義的価値が異なるのだな』と思うだけです。
この二つの主張の間に横たわる大きな差異が政府に理解されない限り、日本は民主主義や人権感覚においてEUとは価値観を異にする、と判断されても仕方がないなと思います。どちらが正しくどちらが劣っているというのではなく、価値観が違うのだと。
私自身は、平安時代の日本が数百年にわたって死刑廃止国であったことに注目しており、古代的な発想とはいえそこに横たわる基本的な価値観は近代のそれと同じです。素朴とはいえ、そこには政府が人民すべての生命を怖れかしこむ倫理的姿勢が生きてました。その伝統的価値観に基づいて日本も死刑廃止に踏み切ることができると主張しているのですけど、それが1ミリも伝わらずもどかしい。
改めて死刑廃止論の主張を整理する記事も見かけます。
その中で、私には不思議でならないことがあります。
「国家だからといって『殺人』は許されない」というのが、死刑廃止派の論理の一つだということです。
殺人は重罪である。それならば、なぜ国家は死刑という殺人を犯すのか? それは許されるのか? というのが死刑廃止派の倫理だということです。
なるほど、素朴でわかりやすい。
しかし、一応死刑廃止論者のはしくれであるかもしれない私はそんなことは言っていません。
今まで一度もそんな甘いことを言った覚えはない。
そうではなく、端的に「国家には国民を殺す権利はない」と言ってきただけです。
死刑囚に情状酌量の余地があろうが無かろうが、生い立ちがどうだろうがそんなことは関係ない。谷垣法相は、「残虐非道な罪を犯した死刑囚二死刑を執行するようにしたが、死刑囚の生い立ちを見ると、みな不幸な人たちであったと思う」などとおっしゃっていましたが、単に政府には、国民を殺す権利がないと言っているのです。
歴代の法務大臣は「個人としての私は死刑を執行するのは苦しい、しかしこれが法務大臣の職責だから死刑にせねばならない」と、国家の義務として死刑を行うことに何ら疑問を挟まない言説を聞くたびに、『ああ、前提となっている民主主義的価値が異なるのだな』と思うだけです。
この二つの主張の間に横たわる大きな差異が政府に理解されない限り、日本は民主主義や人権感覚においてEUとは価値観を異にする、と判断されても仕方がないなと思います。どちらが正しくどちらが劣っているというのではなく、価値観が違うのだと。
私自身は、平安時代の日本が数百年にわたって死刑廃止国であったことに注目しており、古代的な発想とはいえそこに横たわる基本的な価値観は近代のそれと同じです。素朴とはいえ、そこには政府が人民すべての生命を怖れかしこむ倫理的姿勢が生きてました。その伝統的価値観に基づいて日本も死刑廃止に踏み切ることができると主張しているのですけど、それが1ミリも伝わらずもどかしい。