毎週月:小説「COLONY」 第3話
3 スクリーンの向こうの友だち/追跡の数式 午前十時、理科室のカーテンは半分だけ閉められ、白いスクリーンに会議アプリの待機画面が映っている。机はコの字、中央のスピーカーフォンには青く光る輪が見える。 「音、入りますか」先生の声に、ICT担当の先輩が親指を立てた。次の瞬間、別の教室が明るく立ち上がる。ハングルのポスター、黒板の大きな MINASE。幾つもの手が、画面越しに同時に振られた。 「こんにちは!」 挨拶の重なりに、理科室の空気がふっと軽くなる。翻訳アプリは待機しているが、最初の笑顔は翻訳を不要だ。 自己紹介が時計回りに進む。リョウは胸ポケットの折尺に触れてから、短く名乗った。 「リョウです。観望会は屋上の配信とログ集計を担当します。好きなものは、港の匂いと、正確な数字です」 笑いがこぼれ、画面の向こうで肩までの髪をひとつに結んだ女子生徒が、控えめに手を挙げた。 「ミジョンです。天文同好会でチェックリストを作りました。好きなのは、夜の屋上の風と、同じものを一緒に見ること」 “同じもの”。 言葉が薄い膜のように画面を渡り、こちら側の机の木目にすっと馴染む。 画面を通して、発言したい生徒が挙手をする。一番最初の発言は、少しお調子者のサトシだ。 「僕はサトシといいます。みんなは通学は何を使っているの?」 ICT担当の先輩は、慣れた手つきで翻訳ソフトを使い、サトシの発言をハングル語に翻訳したものを画面に映し出した。 「バス。雨は混みます」 韓国側の女子生徒がサトシの質問に答え、その韓国語を日本語に翻訳して、同じように画面に映し出す。 「こっちは自転車。坂が多いんだ」 大きな手ぶりでサトシは笑顔で言うと、韓国の生徒たちが大笑いをする。 弁当の写真、購買のパン、試験範囲。 先輩が校内の様子を移した写真を次々とアップしていく。小さな違いに笑い、同じ苦労でまた笑い、日本と韓国の教室は笑顔でいっぱいとなる。 ミジョンが少し迷ってから言った。 「観望会の夜、私は祖母の家に帰ります。祖母は昔、すい星のしっぽを見たと言います。本当かな」 「本当です」リョウは即答した。「尾は塵やガスの向きで、光じゃないんです。おばあちゃんの言葉を当日のログに残したら、きっと面白い記録になりますね」 翻訳が半拍遅れて同じ意味を届け、画面の向こうで小さな頷きが光った。 理科室では「学校あるある」が続く。 「部活、何が人気ですか?」 女子生徒のマリが尋ねると、「ダンス。体育館が小さいから外でやっています」と、韓国の女子生徒が答える。 「うちはサッカー。天文は少数だけど屋上が使えるのが強み」と、同じように女子生徒が笑顔で答える。 先生同士は進路の話へ、生徒側では小さなチャットで走し始めた。 《偏光板、洗濯ばさみ+方眼紙で固定いけた(写真)》 《45°固定でも案外いける》 《明日、風どうかな》 《北東、穏やか。港は潮が高め》 《潮って、彗星に関係ある?》 《……ない。多分》 リョウは最後の一行を消して送信した。祝祭の前日、慎重さは自分の手元に置き、口には出さないことにした。でも心のどこかに、納得がいかない不安感があるのが落ち着かなかった。 黒板に大きな「み・な・せ」。ハングルの表記も並ぶ。 「名がつくと、遠い石が近くなる気がするね」 日本の生徒の一人がそう言うと、 「近くなると、同じが増える」とミジョンが言った。 教室の空気がいっそう明るくなった。名と尺度は世界を身近に寄せる道具になるん、とリョウは心の中で思った。 「将来、どんな仕事に?」と日本側の先生が韓国側に尋ねた。 ミジョンは少しだけ間を置き、「つなぐ仕事」と言った。 「学校と学校、国と国、観測の数字と、その横で笑う人の気持ち。そんなことができる仕事がしたいです」 翻訳が追いつく前に、意味は届く。 順番が来て、リョウは折尺をカメラに向けた。 「僕は宇宙の現場のITを測る、集める、そろえる、そんな仕事に興味があります。父は大工で、木を正しく合わせる仕事です。僕は数字を正しく合わせたい」 「その折尺、通訳みたい」ミジョンが笑う。 「うん。言葉が通じなくても、これはわかってもらえる道具かなと思います」 量も笑顔で言葉を返した。4 追跡室の朝――鳴海 玲 リョウたちが韓国の学校とオンライン会談をしているちょうど同じ頃、つくば。JAXA追跡管制室の壁一面に星図と数列が並んでいた。 「東アジア帯の測光、昨夜分まで反映」 「軌道決定パイプライン更新。非重力効果はモデルE2で妥当」 コントロール卓の中央に立つのは、鳴海 玲(なるみ・れい)。三十代半ば、軌道決定と非重力効果のスペシャリスト。短くまとめた髪、視線は速く、言葉は薄い刃物のように無駄がない。所内でも若くしてその能力を認められ、着実に昇進を重ねてきたエリート職員だ。 「最接近予報、マイナス三日で±〇・六時間。NASA解と整合」 管制官の報告に、鳴海は頷き、別画面へ。 「広報は確定時刻帯を出していい。ただし脚注に“更新により数分単位で変動の可能性”を必ず。期待は笑顔で、誤差は数式で支えるように」 広報室に原稿が届き、鳴海が赤を入れる。 〈水瀬彗星、東アジアで観望好機。最接近は〇月〇日〇時前後〉 削るのは余分な形容詞、残すのは “前後” と脚注の一行だ。 「笑顔は現場に任せる。こちらは刃先を整えるように」 追跡室にいる全職員に対して伝わるように、声に力を込めて言い放った。 「はい!」 そこにいる全職員が玲を見ながら、勢いよく言葉を返した。 その中で、若手職員がファイルを玲に差し出した。 「高校間の合同観測、午前に可視で開始。ログシート、共有可です」 鳴海は目を上げ、短く微笑する。 「いい顔をしているだろう。——こちらは桁を間違えない。それがプロの責任だ。君はいい仕事をしているよ」 例のその言葉に若い職員が照れながらも、強い視線をまた計測機に戻した。 予報帯がさらに締まり、画面の帯は一本の道に近づく。 「非重力項の寄与は現時点微小。次の観測で再評価。誤差は止まらない、止めるのは更新頻度だ」 玲の劇画室内に飛んだ。4 段取りは現実を引き寄せる 日韓のウエブ会議の終盤になると双方で「明日の段取り」を読み上げる。 日本側からでは「屋上:赤道儀二台、経緯台一台。重し増し。配信二系統、テザリング待機」 韓国側からは「祖母の庭からもスマホで。同じ時刻に『み・な・せ』と呼びます」 接続が切れると、理科室は一瞬だけ無音になり、その無音を誰かの深呼吸が満たした。 「いい時間だったね」先生の声が、この時間を終わりを告げるようだった。 リョウは折尺を握り直し、心の中で段取りを復唱する。段取りは現実を引き寄せる。段取りが寄ると、笑顔の位置が決まる。 放課後、リョウは録画の頭と最後に短いマーカーを打ち、スマホのアプリの「EastAsiaSky」にリンクを貼った。 《明日の配信、二系統。ログ表の見出し、各国語版を追加》 すぐにミジョンから《ありがとう。祖母と一緒に見ます。——同じものを》 窓の外の空は薄く澄み、風は穏やか。港の白い目印線は遠いけれど、きっと今日も乾いている。明日、ここに人の輪ができる。 リョウはワクワクする心を抑えつつ、帰路をはずむようにして歩いた。5 刃と数式 夕刻、つくばの施設の屋上で鳴海は手すりに肘を置き、薄い月を横目に息を整えた。 遠くで子どもが笑い、風が髪をわずかに持ち上げる。 (現場は空を、私は数式を。どちらも同じものに向いているような気がするな) 何が起きる、というわけではないが、不測の事態に備えて現場が動いているはわかっている。わかってはいるが、どうにも気持ちの置き所が見当たらない。 いつ起きるかわからない地震を待っている、という非常識な感覚もあり、玲の経験の中でも気持ちの悪い時間になっていた。 だが、自分の不安は追跡室には持ち帰れないとわかっている。 幼いころから、宇宙関連事業に携わっていた父親を見てきて、自分も宇宙に関りたと思って成長してきた。2031年に日本で初めて月に人類を送り込むことに成功し、世界中がその成功を喜んだ。飛行士は二人だった。一人は職員、一人は一般公募であった。すでに操作もAIを駆使し、多くの人出を必要としない宇宙船を構築していたことから、低予算で宇宙船を飛ばせるようになっていた。 父はその日鉱航路設計を行い、日本で初の宇宙飛行士を月に運んだ。 その瞬間を玲は、テレビで観ていた。二十年も前の話だ。 追跡室に戻ると、若手が言う。 「主任、母校の中学が合同配信を無事に終えましたよ。皆、いい顔してます」 鳴海は笑顔で頷き、「期待と計算、どちらも裏切らない」と、誰に言うまでもなくつぶやいた。6 合図 夜、商店街のスクリーンは白くふくらみ、港のクレーンはゆっくり首を振っている。 父は作業台で刃を油で包み、リョウは机の端に折尺、テープ、モバイルバッテリー、予備ケーブルを並べた。 「会議はどうだった」 父が手を休めずに、リョウに声をかけた。 「よかったよ。通訳は道具で、なんとかなるって気がする」 父は笑って頷く。「刃も木に通訳してもらう。人の手だけでは足りないからな」 作業の手を休めずに、父は刃を研いでいた。 リョウは父から「もういいぞ」と言われ、作業場を出ると、ベランダに上がった。 ベランダに出ると、空は遠いのに、今夜は少しだけ手前に寄っている。 スマホが震えた。 《굿나잇(おやすみ)》 《おやすみ。また明日》 翻訳はいらない。韓国語はリョウとしてはもう十分に理解できるようになっている。7 移り変わる 遠くで汽笛。港の縄が一度だけピンと張り、ゆるんでいた。JAXAのモニターは、今も薄い点を追い続ける。 理科室の鍵はかかり、単管の影は眠り、金属の折尺は胸ポケットの内側で、ひんやりと横になった。 世界は約束事の上に整列し、最接近の数字は静かに“明日”へ一歩進む。そして、鳴海 玲は端末の光を閉じ、短く目を閉じてから、また目を開けた。 彼女の仕事は、期待の輪郭を細い数式で支えること。 明日、人々が同じ尾を同じ名で呼ぶために、彼女は誤差の帯をさらに検証するため、夜も更けていく中で、残業となった職員と一緒に作業を進める。 彗星の動向は、今はまだ人類の想定の範囲にあった。 しかし、僅かに、その動きは、まさに僅かに、測定の範疇を超えて、ずれ始めていたことを、人類はまだ認知していなかった。