大江健三郎という男がノーベル文学賞を受賞したとき、たいして面白い本を書いているわけでもないのに散々マスコミに持ち上げられた。そのとき彼がテレビや新聞相手に嬉々として話した内容が「個人主義」の大切さであった。

大江が言うには、「個人主義」の反対概念は「集団主義」だから、戦争につながるのだという。こんなバカが世の中にいるのかと思い唖然としたのだが、実は左翼は「反対概念」を「対立概念」と捉えているようで、自分たちと反対の意見を唱える人間を対立者と見做すようなのだ。
思い起こせば、彼ら左翼は老若男女を問わず、「平和主義者」を名乗り、そのくせ少し反対されると発狂してすぐさま暴力をふるう。
これは実際にあった話だが、97歳(当時)の戦争世代の老人に、30代のさして若くない男が戦争中の話を聞きに出向いた。老人は当時のことを思い出しながら、日本の占領統治は悪くなかった(つまり欧州の奴隷制度とは違っていた)ことを訴えようとしたところ、話を聞いていた男が突然激高して老人の杖を奪って滅多打ちにしたというのだ。
これが自称「平和主義者」たちの相貌というもので、彼ら平和主義者ほど平気で暴力を使う人間は他にいない。しかも、活動家だけではなく、マスコミも、弁護士も、「平和主義者」ほど国家の安全を脅かす行動を取ってしかも反省することがない。老いも若きも「平和主義者」はみな同じ。愚者は一向に進歩しない。では、なぜ彼らはかくも愚かな行動を取るのであろうか?
その理由が、「反対概念」を「対立概念」と考える無能さにある。
彼らはまず自分たちのことを「平和主義者」と自称・規定する。そして「平和主義者」たる自分たちと違う意見を持っている人間を、平和の反対だから戦争を好む人間と考え、「好戦主義者」と勝手に決めつける。そして好戦的な人間ならば何をしてもかまわないだろうと正義面をしたまま暴力をふるうのである。
この頭の悪さに気づかない人間がいることに驚くばかりである。これは「反対概念」を「対立概念」だと誤って理解していることに起因しているのだ。さらにこれは西洋哲学最大の弱点でもある。キリスト教的価値観が「考え方の枠組み」の根底にある西洋哲学は、反対概念の例として「善と悪」を使いたがり、理論構築に失敗することがよくあるからだ。
反対概念を理解するとき、「善と悪」を思い浮かべると失敗に至る。反対概念の例として思い浮かべなければいけないのは「白と黒」もしくは「赤と青」である。どちらもただの色でしかなく、同列同類であるからだ。ただし「白と黒」には善悪の意味が付随している場合があるので、「赤と青」の方がいいだろう。
反対概念は同列同類に揃えてからでないと、理論構築には使えない。これが基本。では「平和」の反対概念は何だろうか? こう考えれば「平和」という理想・目標・結果と同列同類の別の概念は存在しないとわかるだろう。「戦争」は行為・手段であって、「平和」の反対概念にはならない。「平和」の反対概念を「戦争」と考えるのは、反対概念を対立概念だと誤って理解しているためである。
「平和」の反対は存在しないのだ。「平和」はそれが達成されているか否かの違いしかない。「平和」の達成度が0~100までのいずれであるかが問題になる。
「戦争」という手段の反対は「交渉」であるが、戦争と交渉は混然一体となっており、今回のロシアによるウクライナ侵略のように初めから戦争という手段が用いられた場合、交渉するためにまず戦わなければいけない。戦わなければ交渉のテーブルすら相手は用意しない。完全に敗北した後では、公平な交渉は成立しないのだ。
反対概念は対立概念ではなく、善悪の意味はない。反対概念を使うとき、まず最初に「赤と青」を思い浮かべて、自分が反対概念と対立概念を混同しようとしているのではあるまいかと疑ってから落ち着いて考えることだ。そもそも「対立概念」という考え方は、哲学には存在しない。
キリスト教的二元論が思想のベースにある西洋社会は、反対概念と対立概念を都合よく混同させており、それが西洋哲学最大の弱点であることも併せて思い出すといい。
自分とは違う意見の人間に出会ったら「オレは赤、あいつは青」と自分に言い聞かせてから、相手の話を聞くといい。これができれば、自分と違う意見の人間をいきなり殴ったり、違う意見の人間の話を繋ぎ合わせて自分と同じ意見に改変するなどの蛮行を慎めるようになるだろう。
ちゃんと物事を考えられるようになれば、最初に例として挙げた大江健三郎にように「個人の反対は集団もしくは全体だから、戦争につながる」といったバカ丸出しの連想ゲームをせずにすむ。
「個人主義」を語りたいのであればそれをまず「個人尊重主義」と言い換えればよい。そして反対概念は「集団繁栄主義」と考えるのだ。
「個人尊重主義」と「集団繁栄主義」は、反対概念ではあるが対立概念ではない。「個人尊重」と「集団繁栄」は、切っても切り離せない、ともに必要な考え方なのである。どちらが過大になっても過小になっても、その主義は失敗に陥る。
日本の左翼はますます暴力性を隠さなくなっているようだが、彼らのようになりたくない人間は、政治から距離を置くのではなく、知性を磨く努力をするべきである。























