深層昭和帯

深層昭和帯

映画、ドラマ、アニメ、特撮など映像作品の感想を中心に書いています。

アンドリュー・バーンスタイン監督によるアメリカのアクション映画。出演はジョン・クラシンスキー、ウェンデル・ピアース、マイケル・ケリー。

 

ジャック・ライアン ゴースト・ウォー ポスター

 

<あらすじ>

 

MI6はドバイでの作戦に失敗する。元CIAのジャック・ライアンは、ドバイでの任務を依頼されて仕方なく引き受ける。ドバイでの出張中に荷物を受け取るだけのはずが、相手は殺され、ジャックと一緒にやってきていたマイク・ノーベンバーとともに拘束されてしまう。

 

MI6本部に連行されたライアンは、ドバイで受け取った荷物を渡すよう要求される。それは秘密作戦のプログラムで、中止したはずが実行部隊が暴走して止められなくなった代物だという。名はスターリング。MI6の作戦失敗は、リアム・クラウンが裏切ったからだとわかる。彼こそがスターリングの実行犯であった。

 

CIAとMI6は、ともにスターリングの動向を探る。クラウンはテロ組織を活発化させることで、スターリングの有効性を証明しようとしていた。ライアンらは彼らの計画阻止のために行動を開始するが、なぜか上手くいかない。それは、MI6副長官アンドリュー・スピアもまたスターリングの有効性を信じていた裏切り者であったからだ。

 

なんとか計画を阻止したライアンは、CIA副長官から長官に昇進した友人のジェームズ・グリアから、副長官昇進の打診を受ける。

 

<雑感>

 

原題「Tom Clancy's Jack Ryan: Ghost War」

 

ドラマシリーズのアマゾンオリジナル長編映画。ドラマシリーズを見ていないので、ジャック・ライアンに何の思い入れもないまま視聴。ジョン・クラシンスキーって、あまりさえない顔だけど、アメリカ人はこういうのが好きなのか?

 

☆3.0。こういうアメリカ人がイキってるだけの作品は何とも思わなくなってきた。

 

 

 

 

 

 

ライアン・ラブ監督によるアメリカのドラマ映画。出演はローレル・トゥーパル、トレヴァー・パーソン、ジョッシュ・キーラー。

 

映画「ブランクスペース」のポスター

 

<あらすじ>

 

週末、ラスベガスへ旅行に出かけた異母兄弟のヘイリーとマック。旅の目的は、恋人にフラれたマックの心の傷を癒すことだったが、ヘイリー自身も人生への意欲を取り戻そうともがいていた。

 

そんな旅の最終日、突然ヘイリーは、幼少期に埋めたタイムカプセルを掘り起こし、そこに入れた亡き実母のブレスレットを探すためにポートランドへ行きたいと言い出す。

 

メイクアップ・アーティストで、2週間後に大きな仕事が控えていたマックは帰りたがったが、脚本家を目指すも思うようにいかず、もがいている姉の無茶な行動が心配で、同行することを決断する。

 

無軌道なヘイリーに振り回され、苛立ちを覚えながらも姉を見捨てられないマック。こうして姉弟は、予期せぬ出来事と感情の波に翻弄されながら旅を続けていく。

 

ポートランドに到着したふたりはタイムカプセルを見つけるが、そこにブレスレッドはなかった。旅を続ける中で姉ヘイリーの心の傷を知ったマックは、姉としっかり向き合うことで、家族の大切さを思い出す。衝突しながらも、ふたりは互いにかけがえのない存在だった。

 

<雑感>

 

原題「BEAUTY OF A BLANK SPACE」

 

タイムカプセルはあったものの、ブレスレッドは見つからなかった。ヘイリー自身にもブレスレッドを入れたとの確信はなかった。

 

これはおそらく、母のブレスレッド=家族の思い出、みたいなメタファーで、過去に縛られているからこそヘイリーは精神状態を保つことができたものの、一方で過去にすがるあまり現実が見えなくなり、方々でトラブルを起こしてしまっていたということではなかろうか。

 

過去ではなく現実と向き合うことで、姉弟は和解する。マックはゲイなので、それを話せなかった家族とは最初から距離を置いている。

 

☆3.0。ロードムービーとしてはそこそこよかったのではないか。

 

 

 

 

 

シャシャ・ナカイ、リッチ・ウィリアムソン監督によるカナダのドラマ映画。出演はリアム・ディアス、エッセンス・フォックス、アンナ・クレア・ベイテル。

 

映画「ぼくらの居場所」ポスター:子供たちの希望

 

<あらすじ>

 

多様な文化を持つ人々が多く暮らす、カナダ・トロント東部に位置するスカボロー。そこに暮らす3人の子供たち。精神疾患を抱えた父親の暴力から逃げるようにスカボローにやって来たフィリピン人のビン。家族4人でシェルターに暮らす先住民の血を引くシルヴィー。そしてネグレクトされ両親に翻弄され続けるローラ。

 

そんな彼らが安心して過ごせる場所は、ソーシャルワーカーのヒナが責任者を務める教育センターだった。厳しい環境下で生きながらも、ささやかなきずなを育んでいく3人だった。

 

<雑感>

 

原題「Scarborough」。多様性についての話。

 

劇中では「多様性はすでにあるもの」「あって当然のもの」が前提になっていて、それらは支援が必要なのに十分行き届いていない、と訴えられている。だが、支援なんて無限に湧いて出てくるものじゃない。それをやろうとして失敗しているのが日本じゃないのか。

 

支援が必要な人間が描かれていて、それがかなりショッキングな描写であるためにこの作品が導こうとしている結論に飛びつきがちなのは理解するが、映画の製作者などは、こうした支援が必要な人々をダシにして利権をむさぼる側だということを忘れてはいけない。

 

いくら増税しようが、支援金を寄付しようが、本来支援を必要としていない「支援者」の懐を潤すばかりで、彼らは「支援が必要な人=弱者」を救うことはない。弱者が救われてしまっては彼らは仕事を失い、他人を見下す特権を失うからだ。

 

☆2.0。こんな映画にホイホイ騙されるようでは困ったものだ。

 

 

 

 

 

デュジャン・バボセク監督によるスロベニアのホラー映画。出演はレア・コク、マルコ・プランタン、ダリヤ・クリン。

 

ホラー映画「JAMA」のポスター、森の中の車と人物

 

<あらすじ>

 

裕福な女性を狙って強盗を繰り返すケビンとミア。今回の標的は、大きな家に1人で住む女性エマだった。計画通りにエマと接触したケビンは、彼女を食事に誘うことに成功する。その隙に、ミアはエマの家に忍び込み金品を盗み、計画は順調に進んだかに見えた。

 

しかし、逃げ出そうとした際、車内でエマと激しく絡み合うケビンを見たミアは嫉妬に駆られ、エマを殴り倒してしまう。その勢いでエマを殺した2人は、遺体をトランクに詰め込み、遺棄するため森の奥へと車を走らせた。

 

その後、穴を掘ろうとした矢先、些細なことで口論を始めた2人だったが、次にトランクに目をやると、エマの遺体が忽然と消えていた。彼女はまだ死んでいなかったのだ。森の中に逃げたエマをケビンとミアが手分けして追いかける。

 

エマはケビンに捕まり、首を絞められる。あがく彼女は、ピンヒールを彼の頭に突き刺してなおも逃亡する。しばらく倒れていたケビンだったが、気が付くなり覚醒剤を吸い込み、ハイになって毒キノコを貪り食う。幻覚キノコでおかしくなった彼は、エマに殴り殺される。

 

さらにミアの前に森の悪霊が姿を現し、復讐しろとそそのかす。エマを発見したミアは、銃を撃ちまくって彼女を追いかける。エマはケビンを殴るのを止め、さらに森の奥へと逃亡。森の精霊に生きろと励まされる。そこで持ち合わせの道具で、ナックルアローを制作する。

 

女同士の壮絶な殴り合いの末、エマはミアを溺死させた。

 

<雑感>

 

原題「HOLE/Jama」。スロベニアの低予算映画。これもひどいなぁ。

 

森の中で不細工な3人が殺し合うだけなのだが、ケビンというのがバカの役立たずで、こいつはあっさりキノコを食っておかしくなったところを撲殺されてしまう。残ったミアには森の悪霊がやってきてそそのかし、エマに所には精霊がやってきて頑張れと励ます。

 

なんじゃそりゃww

 

☆2.0。クソ映画マニアにおすすめのクソ映画でした。

 

 

 

 

 

グレアム・キャンベル監督によるカナダのラブコメ映画。出演はクリスティーン・L・グエン、ジェイミー・スピルチュク、ブレンディー・グリーン。

 

ラブコメ映画『Mr. Pawsitively Perfect』のポスター

 

<あらすじ>

 

マーケティングデザイナーとして独立を考えているデイジーは、親友ジュリアの経営するカフェで働きながら、犬の預かりボランティアのサポートにも携わっていた。

 

ある日、ロサンゼルスで成功したデザイナーのジェイスが故郷に戻り、デイジーの働くカフェに現れる。彼は、かつて恋人と一緒にテレビ番組で人気を集めた有名人でもあった。

 

高校時代の先輩として彼をある程度は尊敬していたデイジーだったが、派手な活動をしている彼に対しては複雑な感情を抱いていた。

 

そんなジェイスが突然、犬の預かりボランティアに名乗りを上げる。デイジーは、どうせ自身のビジネスをアピールするためだろうと警戒心を抱き、彼の行動を注意深く見守る。

 

しかし、一緒に犬と接する中で、ジェイスが本当に犬を大切に思っていることが伝わり、彼の意外な一面に触れたデイジーの心は、少しずつ変化していく。そして最後は結ばれる。

 

<雑感>

 

原題「Mr. Pawsitively Perfect」。いつものじゃなだのラブコメテレビ映画。

 

主人公の女性はベトナム系。それが白人と恋愛関係になる話。いわゆるポリコレ配役なのだが、このリベラルが流行らせた概念は、90年代にその基になるものはあった。

 

90年代当時、世界のリベラルはブラジルに着目した。ブラジルは征服者であるポルトガル系の白人と原住民の黒人に近い南米系先住民、それにレイプから生じた混血とアジア系移民が混ざり合う地域であったが、サッカーのワールドカップを通じて民族の融和が訴えられるようになった。

 

それは政治的には未達成のままで現在でもそうなのだが、サッカーブラジル代表が世界のトップになったことから民族融和の成功例として90年代に意識されるようになった。

 

その後、BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)の勃興などがあり、リベラルは「(成功例である)ブラジル」を世界が真似るべきだと主張し始めた。つまりあらゆる人種、民族が混ざり合い、それぞれの国で義務を果たすことがコスモポリタンであると。

 

これが90年以降に起こったことだ。

 

このブログで散々書いていることだが、こうやって最初に「絶対に正しい答え」を掲げて、それに形だけ合わせていこうとするやり方は必ず失敗するのである。ブラジルで起こったことが、そのまま韓国やポーランドで起こるはずがない。

 

失敗するとわかっているから反発が起こる。するとリベラルは、「絶対に正しい答え」を理解しないと言って反対者を見下し、自分たちが掲げる「絶対に正しい答え」をゴリ押ししようとしてさらに傷口を広げる。世界はずっとこの繰り返しなのだ。

 

世の中には「オレは難しいことはわからん」と構える人間がいる。だがその人たちは、「オレにはわからない」という正しい答えを得ている。問題なのは「オレにはわかっている」と構えている人間なのだ。こうしたインテリ気取りのバカどもと、ずっと戦ってきたのだ。

 

この作品もポリコレまみれだが、性欲で人と人が結びついた気でいるなら大きな間違いだ。文化的な断絶を乗り越えるほど愛の力は大きくない。

 

☆2.0。ポリコレの反動は白人至上主義になるから、日本はいまのうちに自主独立の機運を高めておくべきだ。

 

 

 

 

 

原作:荒川弘、監督:入江泰浩、構成:大野木寛、制作:ボンズ。

 

鋼の錬金術師:エドとアル、仲間たち

 

第7話 隠された真実

 

マルコーの研究資料を探しに国立中央図書館第一分館へやって来たエドとアル。だが彼らが見たものは、すっかり全焼した分館の跡だった。マルコーの資料が本当に分館にあったかを確認するためエドたちは、マリア・ロス少尉の手配により、分館の資料に精通しているという少女、シェスカの元を訪れる。けれどそこで判明したのは、資料はやはり焼けた分館にあったという残念な事実。落ち込むエドたちだったが、それを見たシェスカは思わぬ奇策を提案する。

 

第8話 第五研究所

 

賢者の石の真実を探るため元第五研究所へ忍び込んだエドは、そこで床に描かれた賢者の石の錬成陣を発見する。その時、鎧に身を包んだ男、ナンバー48がエドに襲い掛かかる。一方、研究所の外でエドを待つアルも、鎧を纏ったナンバー66という男に襲われる。繰り広げられる激闘、その最中思わぬ事実が判明する。なんと48も66も、アルのように、鎧に魂のみを定着させた存在だったのだ。

 

<雑感>

 

まだ2003年版と内容は一緒。細かいところがかなり違っているかな。全体的に情報が整理されてわかりやすいのと、同じ逸話を長々と引きずっていない。2009年版の方がテンポがいい。

 

48と66の戦闘シーンで、アルフォンスが自分の存在証明に悩むようになる場面がある。2003年版はこの話をかなり引きずったのだが、2009年版はどうなるだろうか?

 

 

 

 

 

原作:林田球、監督:林祐一郎、脚本:瀬古浩司、制作:MAPPA。

 

ドロヘドロ 2026年春 アニメ新シーズン

 

第10話 魔の22

 

煙の愛犬キクラゲが森の中で見つかった。いまや権勢を極める十字目団は、キクラゲの捕獲作戦に乗り出す。豚と夏木が森の中に入り、キクラゲと鳥太を発見する。

 

一方の煙ファミリーの残党は、タキー、消、藤田、恵比寿らが集まり、決起の時を待っていた。消は煙の脳味噌のない生首を確保していた。キクラゲの魔法さえあれば煙を再生するチャンスがある。そこで藤田が、キクラゲの人形を使い捜索することになった。

 

豚がキクラゲを縛り上げている姿を見た恵比寿が暴走。怪物となり豚に襲い掛かる。恵比寿、藤田はキクラゲを捕まえて逃走する。

 

会川は昏睡状態にあった栗鼠を介抱していたが、大丈夫とわかると部屋を出ていった。会川は記憶の一部が欠損して混乱状態にあった。そんな彼を、実は疑っていた栗鼠が追いかける。だが、会川に悪意があるようには見えない。ふたりは口論となり、栗鼠は煙の屋敷に向かう。

 

アスこと川尻と行動を共にしていたニカイドウは、ついに煙を出す訓練を始める。上手く制御できないと見た川尻は、煙屋敷の本棚に似た症例が記された本があったことを思い出し、屋敷に忍び込むために変装することに。彼女は変身装置を使い、十字目の何者かに変身する。

 

<雑感>

 

各自バラバラに動いていた登場人物が、ついに煙屋敷で一堂に会することになる。そこに加わるかどうかわからないのは、会川だけか。栗鼠は煙屋敷に戻るはず。キクラゲの力で煙が再生されると、全面抗争再びになりそうだ。

 

よくわからなかったのは、夏木をくるんでいた防護服みたいなもの。あれが夏木の魔法なのだろうか? よくわからないが、藤田は可能性を見つけていた。

 

 

 

 

 

中日ドラゴンズことチュニドラの借金が14になったので、またわたくしの出番でございます。わたくしが中日ドラゴンズを笑いものにする記事を書くと、不思議と勝ちだすというジンクスに嫁がすがっておるのでございます。

 

中日ドラゴンズ 井上一樹監督

 

 

オレにすがるのではなく、井上一樹の休養報道を大人しく待てと。井上が辞めたからと言って強くなるわけではないが、2026年5月20日阪神戦のような笑うしかない負け方はしなくなるだろうと。

 

7点取ったから最下位のくせに舐めプして主力を下げ、先発がまだ余力あったのに交代させて勝手に負けたのだろう? オレは見てないけど。

 

100%井上一樹のせいじゃないか。 

 

開幕から井上一樹のせいで何試合負けてるよ。こいつがいなければ借金14のうち7試合くらい取れていたんじゃないのか? 井上一樹と前任の立浪和義は、中日新聞大島派のドメスティック人事で選ばれただけ。単純に能力不足なんだよ。

 

能力不足を監督にして失敗したのなら能力のある人間を後任に充てようと普通は考えるだろ? それをできないのが中日新聞大島派なんだわ。トップの大島宇一郎から取り巻きまで無能の集団だからなw

 

それよりオレが気になっているのは、中日の投手交代は誰が仕切っているのかということ。井上一樹はバカだからヘッドコーチを置いてない。では投手コーチが仕切っているのかというと、1軍だけで3人もいるんだよ。バカだろ? 井上一樹にマネジメント能力なんかないんだよ。1軍に「教える」コーチなんかいらないっての。

 

立場的には落合英二が仕切っているはずなんだけど、落合英二は前任者の立浪和義がコーチの進言を一切無視してやりたい放題だったから、監督にものを言わなくなってるんだよ。監督から聞かれた時だけ答える。井上が他人に相談するはずないから、英二は投手の管理だけやっているはず。

 

選手個々の体調管理を英二がやっていても、その情報が共有されているかどうかも怪しい。井上一樹みたいな能力不足を棚に上げて選手を煽り散らかすような人間が、ベンチをマネジメントできるはずがないんだよ。

 

オーナーの大島宇一郎がバカなんだから、どうしようもないと思うけどね。勝ちたいのなら、小山派と休戦して監督人事は折衷案で行くしかないだろう。残りの試合は落合英二に任せて、来年から荒木でいいんじゃないか。

 

オレは落合博満と森のコンビをもう一度見たいけれども。大島派の連中は落合博満に酷いことをしているから、合わせる顔がないんだよ。しかも逆切れして「俺達は悪くない!」って開き直らないとプライドが保てないのだろう。

 

これが大島宇一郎がバカたるゆえんだよ。

 

一応記事は書いたが、これでチュニドラが連勝するんか?

 

 

 

 

 

 

かなり昔のことだが、縄文時代を指して「原始共産制」だとする言説が流行った。縄文時代はみんなで働き、みんなで分け合い、互いを思いやって暮らしていたと考えられたことから、「まるで理想的な共産主義のようだ」と現代的な価値観と結びつけられた。

 

思索する古代ギリシャの哲学者像

 

本日は、彼ら左翼が夢想した「原始共産制」を、誰が破壊したのか書き留めていきたいと思う。最初に書いておくが、それはヤマト政権などではない。「原始共産制」という言葉に含有される概念は、ごく最近まで生きていたのである。

 

■「原始共産制」

 

原始時代は財産が共有されていたと、何の証拠もないのに夢想した左翼たちは、原始共産制という言葉を生み出してご満悦だった。さらに縄文時代には戦争がなかった、争いごとが少なかったことも、彼らが原始時代を「共産制」だと決めつけた論拠になっていた。

だが、実際は殺人なども行われていたので「それほど平和ってわけでもない」と、こうした考え方は退けられた。さらに共有財産だった証拠もなかったために、「原始共産制」はただの言説止まりでおわり、論説にすらならなかった。

 

近代国家以降の社会福祉だけが福祉ではないと夢想したときに、彼らは「福祉はもっと原初的な概念ではないか?」と思い至るべきだった。

 

■福祉を生んだのは近代であろうか?

親が子供を育てることは当たり前とされているが、これが人間が最初に受ける福祉である。親は産んだ子供を放置などせず、いたわりをもって育て、大きく育てようとする。それは法などなかった時代、原初からのものだ。また、フェミニストが主張するような、人工的に作られた通念でもない。それが自然なのである。

 

原初の時代から、子供は福祉的概念の中で扶養され、長じるとともに社会の中に組み込まれていった。「個」は社会性の中で放置などされず、むしろ手厚すぎるほど手厚い「福祉的概念」でがんじがらめに幸福になるよう義務付けられていたのだ。

 

ところが、そんな原初からある「福祉的概念」が、まるで存在しなかったかのように膨大な言論で上書きされていく。それが起こったのが近代ヨーロッパである。

 

■福祉はヨーロッパ人によって破壊された

 

自然主義者(ナチュラリスト)を気取る「エミール」の作者ジャン=ジャック・ルソーは、自分の子供を全員孤児院に入れている。彼は当時貧しかったのだが、そもそも扶養する気がまったくなかった。それは社会の仕事だと考えたのだ。当たり前のように行われていた「親が子を養う福祉」は、フランスの似非哲学が蔓延すると同時に怪しくなっていく。

 

形として存在していたはずの「原初的福祉」が、「福祉」という言葉の発明によって破壊されていった。その過程とはいかなるものだったであろうか。

生まれた子供は、親に育てられ、次に、「地域社会」という「原初的福祉」の枠組みの恩恵を得ていた。

 

新生児死亡率が高かった縄文時代など、男は力仕事を任せられる労働者として、女は次世代の子供を産む母として期待されていたので、無事に大きくなった子供はすぐに親の所有を離れ、集落全体を担う人間として嘱望された。お宮参りなどの風習を鑑みれば、無事に大きく育つ子供が社会でどれだけ貴重な存在だったかわかろうというものだ。

時代が下り、社会が発展して人口が増える過程で、職業が専業化されていった。近代が始まったばかりのころは農民が多いわけだから、縄文時代のように子供が集落全体のものではなくなり、「土地」と「家族」と「職業」が子供の運命を決めるようになった。

 

近代なるまで、戦争に参加する以外にその運命を覆すことは困難だった。一方で、予め職業が決まっていたり、婚姻関係で人員の不足を補う仕組みは、人間に生きる意味を与えてくれた。原初的福祉の概念は、ごくごく最近まで「個人」を支えるセーフティネットだった。

一般的に、これらの家族や地域社会が与えてくれるものは、福祉だとは考えられていない。福祉は民衆が国家=権力者と戦って勝ち取るものだけが福祉だと思われている。

 

左翼に顕著なこの考え方は、フランスの似非哲学が発祥で、説明すると長くなるのでまたの機会にするが、あいつらは、自我なるものを発見し、個人が近代以前の土着的運命論から切り離され、自由になり、自分がなりたい職業に就き、思うがままの人生を送り、幸福を感じることが開明的な人間の生き方だと考えた。

 

彼らは自分を守ってきた「福祉」を足枷だと考えるようになった。

 

■原初的福祉から近代的福祉へ

 

リベラリストたちは、自らを開明的だと定義し、「原初的福祉」であったものを、「運命」という名の足枷だと定義し直した。これにより、原初的福祉は徐々に社会から消えていくことになる。

 

彼らが求めた「個」の開放は、都市生活者の多くを都市型の貧困へと突き落としてしまう。地方で小間使いだった少女が、地方での労働から解放されて都市へと流れる。それは何もなかった田舎の生活からの開放として称賛された。ところがそれが幻想だったのだ。

近代になり、都市が大きく発達した。だが、ごく一部の才能のある人間がその恩恵にあずかれる可能性ができただけで、アントン・チェーホフの「櫻の園」に出てきた解放された小間使いが都会で餓死することが彼らが目指した自由の結果である。餓死するところまで描いていないだけなのだ。

束縛から解き放たれる「自由」と、「自由を権利にした意味」で書いた、学究のために必要な「自由」はまったく違うものなのに、概念が違っていても言葉が同一であるため「首を絞めていた手を緩めたら呼吸ができた」程度のことを盛大に「近代によって得た新しい権利」だとはき違えたのだ。

 

都市が発達する。すると、都市部で人手不足となる。必然として、田舎で農業に従事しなくてもよくなる。労働力が都市へと流れる。起こったのはこれだけのことだ。

 

フランスの似非哲学は、さもとんでもないものを発見したかのように思い違えただけなのである。

 

■労働力の過剰と能力不足が都市型の貧困を生む

そうやって都市部に人口が集中し、過剰な人口が単純労働の価値を下げ、人間は「生産力不足による貧困」から「能力不足による新たな貧困」に身を落とした。

 

左翼が求める「福祉」とは、こうした「能力不足による貧困」を補うためのもので、彼らは社会に対して慈悲を求めているわけではない。生産力は足りているのだ。足りないのは彼らの能力なのである。

彼ら左翼は、まず自分をいかなるものからも「個」解放させようとする。それがフランスの似非哲学の基本であるからだ。

 

家族を否定し、地域社会を否定し、国家を否定し、文化伝統を否定する。それらを土着的で時代遅れなものと見做し、自分をそれらから孤立させ、自由を得た気にさせる。

 

「個」は「原初的福祉」から切り離され、都市部へ流れる。だがそこに待っていたのは単純労働である。才能を発揮して煌びやかな世界へ脚を踏み入れるのはごく一部の人間だけ。多くの労働者は、都市型の貧困へと身を落とし、不満を募らせていく。

 

そして、国家に対し「福祉」を要求するようになる。

 

■近代的福祉はやがて重税となって自分の首を絞める

国家権力が采配する国家予算などというものは「みんなの財布」であって、福祉などやらずに開発に回して、余剰労働力を活用した方が最終的に豊かになる。

 

ところが福祉を要求する者らは、開発に参加して、つまり労働を通じてその恩恵にあずかろうとはまったく考えない。「能力不足による貧困」を直接補填しろと要求し、国家に自分たちの要求を飲ませることを勝利目標にしている。

 

経済成長の概念を理解していない左翼はこんな調子なのだ。社会の中で「個」に役割と責任を負わせることで、「個」が最低限の幸福を得られるように工夫してきた「原初的福祉」と違い、「脳力格差を埋めるための処置」を求めているわけだから、その予算は莫大なものとなる。

 

福祉国家を目指したヨーロッパの国々が揃って経済的な失敗に陥ったのは、「原初的福祉」を「近代的福祉」で上書きしたためである。

 

■福祉は捨てたものの中にあった

福祉は本来彼らが捨てたものの中にあった。親の愛がその根幹で、個人の労働力を地域社会で活用してほしいとの期待が、結果として個人を守ってきた。そこには能力差も経済的な格差もあったが、都市ほどの圧倒的な格差ではなかった。

 

次世代の命を生み、育て、集団を維持発展させたいとの希望が、自由恋愛に敗れた個人をおせっかいな結婚圧力という形で救済してきた。幸福は、小さな不幸とともに、親から押し付けられるもので、自分で勝ち取るものではなかった。

 

そもそも福祉は左翼が思っているようなものではなく、根源的に存在していたものなのだ。それらをことごとく破壊してきたのが左翼である。彼ら似非哲学かぶれたちは、福祉の破壊者であり、理想主義の破壊者なのだ。

田舎のお屋敷で小間使いとして暮らし、大した才能もない人間に嫁がされるのは、都会で自由に恋愛を謳歌する美貌と才能に溢れた人間と比較して惨めなものだろう。だがそれが福祉だったのだ。美しくもなく、才能もなく、金もない人間を本当をに救済できるのは、国家などではない。近代国家はそれほど万能ではない。

左翼によって本来あった社会福祉は破壊された。個を発見した、自我を発見した、人間は新たな段階に入った、こんなありもしない似非哲学が、人間をやさしく包んでいた社会福祉を肌から剥ぎ取り、裸のまま野に放り出した。これは「野蛮」である。

 

そして自分たちの政治活動で国家予算からわずかな施しをして「これが福祉だ」と鼻息荒く宣伝してきた。それらは全部ウソである。

福祉は原初的に存在していた概念だった。フランスの似非哲学に踊らされた頭の悪い左翼が本来あった福祉を破壊したのである。

 

■植民地主義と産業革命がウソを糊塗していただけ

 

それが許されたのは、やがて産業革命が起き、都市部で繰り広げられていた開発が、「能力不足による貧困」の増大を糊塗してきたからである。彼らは自分たちが行った原初的な福祉システムの破壊を肯定するために、都市生活者が地方在住者を差別する構造まで作り出した。

そして左翼は都市部において満たされない人間を大量に生産しながら、「能力不足による(精神的なものも含む)貧困」への怒りを、政治的に利用して、勢力を拡大させてきた。そんな彼らが、縄文時代を「原始共産制」などと呼んでまるで自分たちの理想社会がすでにあったかのように夢想していたのだからバカ丸出しである。

「原始共産制」は形を変えずっと存在していたのだ。それを破壊したのは彼ら左翼なのである。都市部に人口を集中させ、「能力不足による貧困」の罠に陥った人間を大量に生産し、民主制の中で無能たちの代表として甘い汁をすする。これが左翼が行ってきた政治活動なのだ。

 

だが、大戦争を経て植民地支配が否定され、戦後復興の需要が消え、戦後のベビーブームがもたらした需要が消え、都市開発が頭打ちになると、いよいよ都市型の貧困が庶民を襲うようになる。「近代的福祉」は、その重税の重みにより自ら瓦解した。

 

■結論

縄文時代が原始共産制だったのではなく、フランスの似非哲学が「個を発見した。自我を発見した」とバカな主張で都会の無能な人間を騙していた間、地方において「原始的福祉」の恩恵は続いていた。権力や国家の概念が生まれるはるか昔から、「福祉」は持続可能な形で存在していたのだ。

人間のように未熟なまま生まれ、子育てが必須である動物が集団生活をしているのに、福祉が人工的な概念であるはずがない。原初的概念として存在していた福祉が、左翼の人工概念によって破壊され、政治の道具にされてきただけなのである。

憲法があれば何でもできる、マルクス主義ですべての格差がなくなり全員豊かになる。そんなできもしないウソを糊塗するため、左翼は連日大声でウソをつき続けなければ死んでしまう惨めな人間に成れ果てた。

 

オレが彼らを許せないのは、彼らが「理想主義者」を名乗っているからだ。彼らの型る「理想主義」が間違っているのは、プラトンを読めばすぐにわかりそうなものだが、あいつらはなにせバカなので、自分が望む結論が書かれた書物しか読まない。

 

彼らは自分たちが破壊した「原初的福祉」を、国家権力を使って立て直せると信じているようだが、国家が親のように子供を愛せるはずがない。

国家にとって国民は数字である。数字でなければ管理できない。だからマクロ経済学を使う。そんな当たり前のことも理解できない人間だけが左翼活動に身を投じるのである。

 

福祉は「原初的概念」として人間社会にすでにあった。だが人間の数は多く、貧しい時代が続いたために十分ではなかった。それでもすべての人間に最低限の幸福が行き渡るよう努力が続けられていた。人間は、経済的に許す最大の幸福を追求してきた。

 

それを近代が破壊したのだ。近代以降に福祉の概念が誕生したというのは真っ赤なウソなのである。むしろ、近代は経済規模を無視して福祉の拡大ばかりを約束し、福祉のレベルを落とすか、国家を破綻させる危機に陥れただけであった。

 

 

 

 

長らくサボっていた絵と音楽の記事を2日連続で書く。これは以前から書こうと思っていたのだが、我々80年代育ちのバブル世代にお馴染みのイラストレーターこそ、永井博、鈴木英人、わたせせいぞう、だ。

 

永井博 A LONG VACATION アルバムジャケット

 

永井博イラスト、プールと海

 

永井博は、NIAGARA TRIANGLEの「A LONG VACATION」のジャケットを手掛け、一躍時代を彩るイラストレーターになった人物。シティーポップブームの視覚的な中心にはいつも彼の碧いイラストがあった。海やプールをモチーフにした都会的なセンスに、若者はぞっこんだった。

 

その永井とよく混同される画風なのが鈴木英人(すずき えいじん)。永井と同じような垢抜けた都会的センスながら、よく見ると画風はかなり違っており、こちらは山下達郎のジャケットなどを手掛けている。

 

FOR YOU 山下達郎 アルバムジャケット

 

SUMMER BREEZE キャンペーンポスター 永井博イラスト

 

このおふたりのイラストレーターが活躍した時代、もうひとり都会的なセンスでより身近な漫画という手法で表現活動していたのが、わたせせいぞうである。彼はTUBEのジャケットデザインなども手掛けているが、漫画の方が馴染みがあると思う。

 

TUBE All Singles TUBEst -Blue- ジャケット

 

わたせせいぞう Colorful イラスト

 

80年代にキッズだった我々の憧れが詰まったイラストレーターさんたちで、思い入れが深い人ばかりだ。

 

よく混同される方々なのでざっくりと特徴を書いておくと、永井博さんは「アメリカをアメリカっぽく描く」人で、鈴木英人さんは「日本をアメリカっぽく描く人」。そしてわたせせいぞうさんは「日本人をアメリカっぽく描く人」くらいの認識。

 

共通しているのは「理想化されたアメリカ」であり、「黄金の50年代」と呼ばれたころのアメリカ。団塊の世代やそのちょっと下の世代くらいが幼少期に映画などを通じて見聞したアメリカが、単純化された理想社会として彼らの頭の中で出来上がり、日本が目指すべき社会として認識されていたってことです。

 

ここに、ちょっと毛色は違うが、江口寿史も加わる。江口寿史の場合は白いワニのイメージが強すぎるので、イラストはまた別の機会に紹介する。

 

「理想化されたアメリカ」という虚像は、すべての世代に共有されるわけではない。だから我々のように団塊世代の創造物に触れて育ったならともかく、もっと下の世代となるとまた違った認識になってくるはずだ。Z世代が「理想化されたアメリカ」像など持てるはずがない。

 

しかし、理想化された何らかの姿に憧れることは、理想というものがあるのだと意識付けしてくれる。こうありたいと願う気持ちがなければ、Z世代ならではの「理想社会」の姿は見えてこない。古いものに憧れる気持ちは、未来への希望になり得るのだ。

 

現実社会の醜いものばかりに目をやり、鬱屈した気持ちに苦しんでばかりいては、人生は楽しくならない。

 

どうだ、見たか。これがバブル世代の頭の中だ。こんなオレらが貧乏になるのがわかり切ってる社会主義や共産主義に憧れるわけがないのだ。いまの日本が貧乏なのは、自由主義の仮面をつけたまま社会主義国家の仕組みを維持したからだ。官僚組織が守ってきた社会主義的支配体制が崩壊しているのだ。

 

それはともかく、こういうイラストを眺めながら、オレが好きだった曲はこれだ。NIAGARA TRIANGLE 「A面で恋をして」

 

 

「真夜中のドア〜stay with me」/ 松原みき

 

 

フォークソング、プログレ、ハードロック、シティーポップ、アニソン、なんでも聴くオレだが、外向けにはシティーポップが大好きな愛知県民として振舞っていた。女の子を車に乗せているときは、上のような曲や、EPO、山下達郎、竹内まりあ、ティン・パン・アレー、ゴンチチなどをかけ、女を降ろすや否やカセットをロボットアニメに換える男であった。

 

そんな青春時代の思い出を、「生きづらい」とほざきまくる若者に突きつけたいw