平和主義者や理想主義者は、人生において否定された経験がほとんどない。よもや平和や理想を否定する人間がいるとは思いもしないので、自分たちを否定する人間に対して異常なまでに攻撃的になる。しかし、彼らは哲学的に間違っているから否定されているのだ。

平和や理想は人間の主義主張で達成できるものではない。平和は政治的選択の結果として一時的にもたらされるものにすぎず、理想は厳しい現実社会の中で正しい選択に至ろうとするための精神的な支柱であるためだ。
平和や理想を主義として掲げた場合、それを目にした人間は、それはどのように実現しますかと尋ねることになる。それに応えられなければ、平和「主義者」や理想「主義者」は面目を失う。そこで平和に至るための政策、理想に至るための方策を示す。これが間違いの始まりになる。
平和に至るための政策は、状況によって大きく変わり、ときには真逆なこともしなければ厳しい現実という状況を乗り切れない。誰もが納得する美辞麗句を並べ立て、多くの人間に支持され、権勢を高めれば高めるほど、彼ら平和主義者が現実に対応できなかったときの支持者の失望は大きくなる。
理想に至るための方策はもっとあっさり否定される。なぜなら理想に至るための方策は個人の資質に大きく委ねられるからだ。同じ能力の人間が同じ時代に同じ職業に就いても、結果は同じにはならない。理想「主義者」の理想に至る方策は、実現することは決してないのだ。
平和「主義者」や理想「主義者」の失敗は、人々に大きな失望を与え、結果として平和や理想への希求を失わせてしまう。勝利するのは、平和を冷笑し、理想に背を背ける現実「主義者」ばかりになる。戦後の日本はまさに平和「主義者」と理想「主義者」によって、現実「主義者」の前に敗北を重ねることになった。
国権の発動を一部制限した占領軍の憲法を「平和憲法」だとウソをつき、マルクス主義のようなありもしない結果平等を約束することで、平和も理想も現実の前にボロボロにされてきた。憲法の問題は「現行日本国憲法の解説」で説明したので、理想について少し書いておく。
理想とは、真善美というものがこの醜い世にもあるのだと仮定することで、あるいは信じることで、人間という愚かな存在が正しく律せられるのではないかとする考え方に過ぎない。真善美に至ろうと努力する個人が、理想的な境地に至ることはあっても、理想「主義者」が全人類を理想の境地に連れて行くことはあり得ないのだ。それを約束する人間はすべてウソつきである。
「理想社会の実現」などというスローガンは、盛大に失敗して「理想社会への失望」を生むだけである。あるのは、真善美に至ろうとする民衆が社会の中にどれほどいるか、真善美に至ろうとする人間が社会の中でどう評価されているかなのだ。多くの人間がより善き人生を送ろうと努力し、より善き人生を送った者を貧富の差なく評価することができていれば、十分上等な社会といえる。
2022年3月2日現在、ロシアがウクライナを侵略し、彼らが核兵器の使用を仄めかしたことでまたしても平和「主義者」は現実「主義者」の前に敗北しようとしている。しかも内閣総理大臣が広島選挙区で、平和「主義者」であるというおまけつきだ。爆弾1発を落とされるだけで、平和は雲散霧消しようとしている。
平和憲法は平和を実現しない。それは「主義者」がついたウソである。
共産主義は理想を実現しない。それも「主義者」がついたウソである。
平和に至る唯一の手段は、平和政策を掲げることではなく、決断のすべてに平和への希求を持つことだ。政策も手段も、平和的である必要はない。理想に至る唯一の手段も同様だ。決断の中に理想があるかないかで人間の判断は大きく変わる。
「これが平和主義です」と与えられたものを暗記しても、現実に平和をもたらさない。「これが理想主義です」と与えられたものを暗記しても、現実に理想をもたらさない。
「主義」を掲げるから、「主義」に至る政策や方策の提示を求められ、挙句、平和や理想といった人間に必要不可欠なものを破壊するに至るのである。











