深層昭和帯

深層昭和帯

映画、ドラマ、アニメ、特撮など映像作品の感想を中心に書いています。

OVA第2話アスターテ会戦の様子を詳しく描いた劇場版「新たなる戦いの序曲」を視聴。90分。

銀河英雄伝説 新たなる戦いの序曲 ポスター

 

<あらすじ>

 

宇宙暦795年(帝国暦486年)。急激な昇進を続け、上級大将にまで上り詰めたラインハルトは第四次ティアマト会戦を勝利に導き、名門ローエングラム伯爵家を継ぐことになった。これを快く思わない貴族たちはラインハルトを戦場で殺してしまおうと企む。

 

<雑感>

序盤でわかるのだが、ラインハルト・フォン・ミューゼルがローエングラムの名跡を与えられるのは大将から上級大将へ昇進したときのようだ。外伝でローエングラムの名前を継ぐからキルヒアイスひとりを先に休暇に向かわせたのはアスターテ会戦の前だったのかと。アスターテ会戦のときにミューゼル艦隊となっていたので若干混乱したが、あの外伝が第1話の前の話のようだ。見る順番がぐちゃぐちゃだったかもしれない。

劇場版の流れでいうと劇場版第1作「わが征くは星の大海」のすぐ後の物語になる。

本伝アニメの1話と2話の部分をかなり詳しくアニメ化してあって、記憶では原作はこんなに細かくは書かれていなかったはずなのでおそらくオリジナル。メルカッツとファーレンハイトがラインハルトの指揮下に入っており、ミッターマイヤーらラインハルト軍団を外してのちに門閥貴族側につくこのふたりをつけたのはブラウンシュヴァイクとフレーゲル。

彼らはミッターマイヤー、ロイエンタール、メックリンガーらがいなければ金髪の小僧には何の功績も立てられないだろうと高を括ってわざと負けさせるために戦場に送り出し、さらにフェザーンのルビンスキー経由で情報を同盟に流している。

予め敵の総数などの情報を得た同盟は帝国に倍する40000隻の艦艇を用意して確実に勝てる戦争だと言ってヨブ・トリューニヒトの息の掛かった、つまり功績を挙げさせたい人間を選んで出征させている。トリューニヒトの覚えめでたいパエッタ中将も駆り出され見事に無能ぶりを晒してしまっている。

ヤンの親友ラップもかなり詳しく出てくるが、すぐに死ぬと知っているだけに不憫でならない。詳しく描けば描くほど不憫さが増すという可哀想なキャラだ。銀英伝を読むと無能な指揮官の下でだけは戦いたくないと切に思う。

☆5.0。壮大で素晴らしいアニメ映画だった。

 

 

 

 

 

「銀河英雄伝説」劇場版第1作「わが征くは星の大海」を視聴。60分。

銀河英雄伝説 わが征くは星の大海 ポスター

 

<あらすじ>

惑星レグニッツァ上空の戦いは、イゼルローン要塞に出征してきたラインハルトが要塞に入ろうとするのをミュッケンベルガー元帥が認めず、そのまま同盟軍討伐に向かわせたことが原因で起こった。同盟側は来るべきイゼルローン要塞攻略戦に向けて進撃中であり、その途中惑星レグニッツァ宙域で帝国軍の索敵に掛かって発見された。休む間もなく討伐に派遣されたラインハルトは、レーダーがまるで使用できない条件下で目視による索敵を行っていたところ真ん前に同盟軍艦隊が出現するのを見た。

これは同盟艦隊も同様で、帝国軍は回避運動をしながら砲撃、同盟軍は体当たり覚悟で突撃という様相になる。双方の無駄とも思える砲撃によって温まった大気が上昇気流を作り出し、ミューゼル艦隊は急速上昇で惑星表面を離れていった。ヤンは惑星の大気が水素とヘリウムであることを思い出して敵艦隊と同様上昇すべきと具申するも無視された。ここにラインハルトは核融合ミサイルを撃ち込んで惑星表面に大爆発を引き起こさせた。

艦艇の多くを爆発によって失った同盟軍は撤退を余儀なくされた。ラインハルトもこれを追わず、イゼルローン要塞に入港した。

と、ここまでが惑星レグニッツァ上空の戦い。ヤンと一緒にアッテンボローがいる。アニメだとアッテンボローと一緒に戦うのがかなり早いのだなと。ミッターマイヤーとロイエンタールの活躍など細かいところは全部カットしてラインハルトの活躍だけ際立たせている。細かくやるとこれだけで1時間はかかるから仕方がない改変だろう。

惑星レグニッツァの敗戦はあくまで気象条件が原因だと言い張る同盟司令官パエッタ中将は引き続きイゼルローン要塞攻略を進めるべきだと意見を述べた。上層部もこれを受け入れ、大敗北でありながら誰も責任を取らない。一方の帝国側もラインハルトを貶めたいミュッケンベルガー元帥とフレーゲル男爵によって功績なしとされ、すべては気象条件のせいに帰せられた。

第4次ティアマト会戦でラインハルトはミュッケンベルガー元帥直々に左翼を担うように申しつけられる。本来これは最も重要な位置であり諸将はざわめいた。だがこれはミュッケンベルガー元帥の見え透いた罠であった。彼は左翼だけを突出させまるで生贄のように無防備な状態で敵の前に差し向けた。ラインハルトと参謀のメックリンガーもこれに気づき、かねてより立てていた作戦を実行することにした。

同盟もまた敵左翼の動きに不審を抱いた。ヤンはこれを帝国内の不協和音だと断じた。ラインハルトはそのまま前進を続けて完全に孤立してしまった。ミュッケンベルガーは交戦が始まり次第全館砲撃に移るよう指示しその際に左翼の被害は考慮するなとまで命じた。射程内に入る寸前でラインハルトは全艦に右に転進するよう命じた。

まるで撃ってくださいと言わんばかりの艦隊運動に同盟軍パエッタ中将は罠であることを確信してあえて攻撃せず、ヤンの進言を無視してミューゼル艦隊をみすみす右翼に移動させてしまった。この間に双方が何もしなかったことによって帝国本隊と同盟本隊は正面衝突することになり、なし崩し的に戦闘が開始された。

この正面衝突によってどちらの側にも大きな損失が出ることになり、無傷なのはミューゼル艦隊だけであった。ミュッケンベルガーは彼を囮にした以上彼に救援を求めることが出来なかったが、ラインハルトは将校の反発より下士官からの感謝を得るために救援に向かった。

損害著しい同盟艦隊は、少数の陽動部隊をイゼルローン要塞へ向かわせるとみせて全軍が撤退する作戦を立案したが、陽動役に志願したのはヤン・ウェンリーとアッテンボローだけであった。彼らふたりと戦艦ユリシーズの操縦士だけを残し他の者らは退艦させた。この1隻とその他の艦は無人操縦艦を使うというのがヤンの作戦であった。

ミュッケンベルガーは同盟の陽動作戦にまんまと引っ掛かり、要塞への退路を確保するために全軍に後退を命じた。帝国の被害は甚大で放っておくことも出来ずにミッターマイヤーにこの陽動部隊を壊滅を命じた。ミッターマイヤーは8000隻と推定された陽動部隊に12隻の高速艇を向かわせた。ミューゼル艦隊だけは誰もがこの陽動に多くが参加していないと見抜いていたのだ。

陽動作戦を潰されたヤンはユリシーズをブリュンヒルトの真下に接舷し、同盟帝国双方の砲撃を止めさせてしまった。同盟は後方に退路を確保し、やがて撤退していった。

<雑感>

 

総集編にあらず。しっかりとした劇場版だった。作画が気合入りまくってる。砲門の数が増えてる。

この映画で描かれているのは惑星レグニッツァ上空の戦いから第4次ティアマト会戦まで。ラインハルトにとって大将に昇進して初めての遠征であり、旗艦ブリュンヒルトの初陣でもある。金髪の小僧、スカートの中の大将と揶揄されるラインハルトはこのふたつの戦いでミュッケンベルガー元帥に危うく殺されかかっている。劇場版はかなり大胆な脚色がしてあったが、OVA版第1作でラインハルトがすでにヤンを知っていたことの疑問が氷解した。アニメはアニメでちゃんと繋げてあったみたいだ。ミッターマイヤー事件をカットした余波なのかと勝手に思っていました。パエッタ中将もかなり違う。

以上が第4次ティアマト会戦のあらましだが、このアニメはかなり内容を端折っている。ほぼ前半だけで決着をつけているし、ヤンが活躍しすぎている。第4次ティアマト会戦はブリュンヒルトとミューゼル艦隊がデビュー戦で無双する会戦なので、ここはアニメの知識だけでは足りないかもしれない。この部分は読んだことがある。本伝にはないので外伝かもしれない。もう古いことなので忘れてしまったが。

改変ちょっと物足らない劇場版であるけども、映像は素晴らしいし、エフェクト作画祭りはこの時代ならではだ。

☆5.0。なかなか楽しかった。

 

 

 

 

 

原作:ボンズ、総監督:京田知己、監督:原口浩、制作:キネマシトラス。

レントンとエウレカ、宇宙を駆ける

 

<あらすじ>

レントンとエウレカは幼馴染でドミニク・ソレルと暮らしているが、ドミニクは殺され、エウレカは人民解放軍に拉致されてしまう。レントンは空軍に入隊して最重要機密回収の任務に就く。その最重要機密こそが幼いころに生き別れたエウレカだった。

この世界は謎の生命体イマージュに追い詰められており、人類は宇宙への脱出計画を進めていた。エウレカはイマージュが送り込んだスパイロボットだとわかった。計画の主要人物が殺され、その調査の過程でレントンたちがいる月光号が反乱を起こしたとの連絡があり、月光号のホランドが遺体で発見された。だがホランドは月光号に搭乗している。

彼らはある実験で並行世界へ連れて行かされ、そこで並行世界の自分と同年齢に成長したのち、再び元の世界へ戻された実験体であった。急成長後は成長が止まり、永遠の命が与えられた。だが実験体たちは再び並行世界へ辿り着き、成長を取り戻そうとしていた。月光号とはそんな人々が乗る船だったのだ。

イマージュが南極に集まりつつあるとき、月光号の中のロボットKLFたちが呼応して反乱を起こした。ニルヴァーシュもまたイマージュに呼応していた。それを止めようとしたエウレカだったが、強姦されそうになり、それを止めようと割って入ったレントンが撃たれた。正気を取り戻したニルヴァーシュが襲撃者を殺して事態は収まったが、レントンは重傷、ニルヴァーシュは幼生に戻った。

エウレカはレントンを助けるべく反乱を起こし、急成長したニルヴァーシュがイマージュたちと戦い、「神話再生計画」は白紙に戻された。

<雑感>

 

SFアニメ「交響詩篇エウレカセブン」の劇場版。しかし内容は本編とはまるで異なっており、キャラクター名などだけが踏襲されているほぼ完全新作という珍しい映画。

並行世界の物語で、テレビシリーズ本編の世界へ入り込んで並行世界の人間と同年齢になったのちにそこで成長が止まるというアイデアが面白い。SFとしてはこちらの方に興味が湧く。だが正直言って、2時間の劇場版でやるには詰め込みすぎている。

本編も劇場版も公開後数年経ってからレンタルで視聴したので、当時のファンの間でどんな評価だったのかは知らないが、個人的にはここまで徹底して本編を破壊して再構築してある劇場版は他になく、本編の記憶が邪魔になることもあるかもしれないがこれはこれでかなり面白いと評価している。

ただ、詰め込みすぎなのだ。話の柱としては、本編で活躍した月光号の仲間が実はネバーランド計画の被害者で体を急成長させられた末にその後の成長を止められている存在であるという部分なので、「神話再生計画」かイマージュか、どちらかはいらなかった気がする。

冒頭からレントンとエウレカが幼馴染で観客は「?」となる。その後月光号と合流して何となく本編に近づいた気持になる。それを裏切り、並行世界でのレントンとエウレカの恋愛を成就させるだけで十分だったような。どの程度詰め込んでもいいかは難しい判断だけども。

☆3.9。邦画としてはかなり高めだ。実際良く出来ている。

 

 

 

 

 

監督:須藤友徳、原作:奈須きのこ、制作:ufotable。

空の境界 未来福音 劇場版ポスター

 

<あらすじ>

未来を見ることができるがゆえにこれから死のうとする人間を助けようとしてしまう少女瀬尾静音は、未来が確定的で自分の存在によって変えられると思っていた。しかしそれは黒桐幹也との出会いによって過ちだと理解することになった。未来は決まってなどいなかったのだ。

もうひとりの未来視、倉密メルカは逆に確定的な未来を見ることができた。彼は未来がわかってしまうがゆえに爆弾テロの一味として働き、爆弾設置をしながら人を殺さないことで報酬を得ていた。ただその金も事件の被害者のために使ってしまい、手元には残らなかった。

あるときメルカは両儀式に顔を見られてしまう。事件発覚を恐れた彼は式を殺そうとするが、未来が見える彼が式を殺せない。彼は自分の能力のことを勘違いしていた。彼は起き得る未来の可能性を排除して絞っていただけで、未来の可能性はいくつもあったのだ。

本名の瓶倉光溜に戻ってからは、絵本作家の介護を手伝い、のちに自身がその役を引き受けるようになった。そして、式と幹也の子供と知り合う。

<雑感>

 

時系列でいうと痛覚残留と俯瞰風景の間の話に当たり、12年後の未来のことも描かれている。

未来を見ることのできる人間が3人登場する。上記の人物以外は街の占い師だ。彼女が1番確実な未来を見ることができた。この3人と、未来のメタファーである両儀未那の登場で締めくくられた構成になっていた。

荒耶宗蓮が関係していない話なので、第一章から終章までのテーマとはまったく違う。むしろシリーズは荒耶宗蓮によって作られていたという。彼の執念だけで物語が動いていたのだ。式の命も荒耶宗蓮がいなければどうなっていたのかわからない。

荒耶宗蓮がいないと内容があっさりしてしまうのがちょっとだけ残念だが、映画自体は楽しめる内容になっている。

 

☆3.6。シリーズの締めくくりとしては素晴らしい作品だった。

 

 

 

 

 

原作:虎虎、監督:石原立也、脚本:花田十輝、制作:京都アニメーション。

中二病でも恋がしたい Take On Me 映画ポスター

 

<あらすじ>

 

「十八歳。高校最後の年。なのに六花は・・・・・・まだ中二病だった」

 

大学受験も見えてきた高校三年間近の春休み。相も変わらず富樫勇太は小鳥遊六花と共同生活をしていた。しかし未だ上位契約も結べていない様子。そんなある日、姉の十花が六花をイタリアに連れて行くと宣言する。仕事も安定したので、家族で移住すると言うのだ。


焦る勇太だったが、大学進学も危うい六花をこのままにはしておけない、という十花の意見はもっともだった。


このままでは二人が引き裂かれてしまう。心配した丹生谷らいつものメンバーから、勇太はなんと”駆け落ち”を提案される。こうして、日本全国を舞台にした二人の逃走劇が、今始まるのだった。

 

<雑感>

きっかけは十花がイタリアで成功して自分の店を持つことになったこと。そこで邪王真眼も連れて行くと言い出したから大騒ぎ。モリサマーが駆け落ちせいやとそそのかし、結局ふたりは京都、東京、北海道、青森と渡って最後はタイトルを回収して終わり。

なかなか良く出来たラブコメだった。

もういまはアニメを選ぶようになっちゃってこういうのは視聴していないのだが、1期は確かレンタルで視聴した。本放送時はまだアニメの視聴をしていなかったはず。京都アニメーションで最初に観たアニメがこれかもしれない。京アニのことも知らなかったからな。

☆4.0。結末まで描かれる作品が少ない中、とても恵まれた作品だったようだ。モリサマーとかめっちゃ懐かしかったわ。

 

 

 

 

 

荒木哲郎監督によるアニメ映画。キャラクター原案:美樹本晴彦。アニメーションキャラクターデザイン・総作画監督:江原康之。

甲鉄城のカバネリ 海門決戦 キャラクター集

<あらすじ>

幕府が倒れたことで各地の領地が独立状態になった日ノ本では、それぞれの領主がカバネと戦い自らの土地を守っていた。

旅を続ける甲鉄城は北陸の要所海門(うなと)にいた。5年前にカバネに襲われ通行不能になってしまった海門は交通の要所であるが故にどこの国も欲しがっていたが、あまりにも強力なカバネの攻撃に士族の連合が必要との結論になり、北陸連合軍による奪還作戦が立案された。

海門を奪還すれば飛騨へと抜ける路線が回復することから甲鉄城もこの作戦に参加することになった。

海門城にはかつて景之という城主がおり、カバネに襲撃された際には先頭に立って戦ったことから地元の人間に親しまれていた。

ところが景之はカバネに噛まれてしまう。それを自らの首を絞めることでカバネリとなって生き延びた彼は、城に戻って家臣たちに自分はカバネかカバネリかと問うた。すると家臣は返事に詰まり、恐怖のあまりに城主を撃ってしまった。

景之には娘がいた。娘は父が撃たれて動転して彼を庇おうとした。それを家臣たちはまたしても撃ってしまう。しまいにはカバネの子はカバネだと自己弁護して人の子を殺したことを詫びようともしない。

怒り狂った景之は家臣たちを次々に殺していく。そして撃たれ瀕死の娘に噛みつき、彼女をカバネにして生き延びさせた。

海門に蔓延り巣くうカバネは景之の怨念によって黒煙りとなろうとしていた。北陸連合軍はこれを砲撃によって粉砕するつもりでいたが、海門のカバネの動きがおかしいことに気づいた生駒は調査を申し出る。ところが北陸の士族たちはカバネリを恐れ侮り、忠告を聞こうともしない。

生駒の忠告通りカバネが通る穴が見つかり、さらに彼の予見通りカバネを操る者がいて、北陸連合軍の奇襲は失敗してしまう。

町へなだれ込んでくるカバネを討つため、生駒と無名が出撃していく。

海門城へ潜り込んだ生駒と無名が目にしたものは、黒煙りの心臓になった景之の娘と、それを必死に守る景之の姿であった。

<雑感>

 

テレビシリーズ「甲鉄城のカバネリ」から半年後の世界を描いている。

「甲鉄城のカバネリ」は、こだわりぬいた作画がまず目を引く作品であるが、荒木哲郎のパワフルな演出が1番の持ち味。1枚絵のイラストをそのまま動かしたかのような美麗な作画も魅力かもしれないが、何度も念を押し力強く印象付けていく荒木の語り口がなかったら魅力は9割減だろう。

監督が絵にこだわって作ったというだけだ。

海門決戦は1話25分の3話構成になっていて、正味60分くらいの中編映画だがテレビシリーズ本編より満足感が高い点がいくつかある。まず、甲鉄城が旅をしていることがしっかり描かれていること。特に北陸に移動していたのはとても良い。

テレビシリーズで不満だったのは旅が続くと思われた矢先に幕府の話になってしまったところで、こうして旅をしながらカバネに襲われて通れなくなった町を潰していく話の方が面白かった。

加えてカバネを倒しながら本来の日本を取り戻そうとしているところがしっかり見えているのも優れているところ。本編は「日本がゾンビ(カバネ)に覆われ大変なことになっている」としながら、最後は人間同士の戦いに終始してカバネを倒した後のことがおざなりになってしまった。

☆4.3。テレビシリーズは日本中を旅すると思わせておいて中座したところに大きな不満があった。

 

 

 

 

 

いまだになぜ東京一極集中になったのか理解できていない人間が多数いるようなので、2010年に書いた記事をしつこく転載しておく。

 

ソクラテスの彫刻、物思いにふける様子

1票の格差を問題にして地方の代表を減らせば、地方の声が中央に届かなくなり、東京ばかりに投資されることになって、挙句、人と企業が東京に集中する。これが理由である。こんな簡単なことがなぜわからんのだろう。

左翼とマスコミに騙されるバカは死んだ方が良い。生きている価値がない。

「積年のバカ話」

国民投票であなたとわたしの1票の価値に格差があれば大問題になる。有権者の個人的価値に格差が生じるためだ。

だがいわゆる「1票の格差」と呼ばれるこの問題の場合、選挙区内の1票の価値は同じである。あなたとわたしの1票は等価値なのだ。知事を選ぶにも、市長を選ぶにも、国会議員を選ぶにも完全に1票の価値は等価値である。

ところがずっとこの問題は、マスコミ主導で「違う選挙区」の1票の価値の格差を論じてきた。しかも最も過密地域と最も過疎地域の比較である。

違う選挙区ということならば、都市部に住んでいる自分の街の市長を選ぶときの1票の価値が、僻地の村の村長を選ぶときの1票の価値と比較して良いの悪いのと問題になるだろうか? 

都市部の市長を選ぶ場合も、僻地の村長を選ぶ場合も、選挙区内の有権者の1票の価値は等価である。そんなことは分かっているから、それを田舎の村長選と比較して「自分の1票の価値が低い」だのと怒ったり、市長選と比較して「オレの1票の価値は大きい」と自慢したりはしない。

マスコミと左翼が喧伝してきた「1票の格差」というのは、個人の1票の価値の格差ではなく、地域格差の目安に過ぎない。それほど深刻な過疎が起こっていることを問題にすべきなのだ。

国会議員が有権者から付託される1票の価値が、都市部と地方で格差があるという。格差があれば、地方の方が、若干多めに国会において意志が反映される。少人数の声が国会に届く。

それであっても、有権者の多い都市部選出の議員の方が地方出身議員よりも圧倒的に数において勝るので、地方の意見の方が有利に議決されるほどの格差ではない。もしこれが、都市部の意見を圧迫するほどの格差になった場合だけ問題にすればいい。日本でそんなことは一度も起こったことはない。

それどころか、非常に狭い選挙区から選出される議員の陳情と、広域に及ぶ選挙区から選出される議員の陳情では、都市部選出議員の陳情の方がはるかにきめ細やかな小さな話題さえ意思反映され、地方選出議員は大雑把な、例えば公共事業の誘致のようなものにとどまる。

満ち足りた都市部は「ジェンダーレス」だのほぼ変態性欲に近い意見まで政治議題になり、地方は若者の都市部流出をどうやったら止められるかという死活問題さえ議題にならない。地方がどんどん高齢化して人がいなくなり空き地になるから経済など発展しようがない。 

1票の格差を是正すればするほど、都市部の有権者の方が政治に意見が反映されやすくなり、小さな政治議題が大きな政治議題だと勘違いするようになる。その陰で地方経済は行き詰まり、交付金頼みとなって東京の経済の足を引っ張ってしまうのだ。

マスコミによって「(個人の)1票の格差」と表現されてきたものは、実は地域格差として表現すべきものだった。「(個人の)1票の格差」の問題としてしまったために、重大な地域格差の問題が歪められてしまっている。 

オレは「(個人の)1票の格差」などどうでもいいから、地域格差是正を考えていくべきだと思っている。いまのままでは地方が圧倒的に政治的に不利であり、きめ細やかな陳情を国政に訴えることができない。発展させるための策が高じられないから、都民の交付金負担はさらに増え続ける。

国家の問題を議論する国会議員選出において、過密地域と過疎地域の1票の格差(存在しない格差)をさも大事であるかのように問題視したことが、過疎地域の住民、過密地域の住民双方を苦しめる結果になっている。国家の大事を決定する国会議員は、全地域満遍なく選出し、全地域満遍なく発展できるようにしなければならない。

マスコミが作り上げたこの1票の格差という積年のバカ話は、日本法曹界のレベルがとんでもなく低いことを炙りだしている。先頭に立って旗を振ってるバカはマスコミである。

国会は、個々人の生活のあれこれを考える場所ではない。地域のことを考え、国土の安定的で平均的な発展を考える場所である。 

1票の格差とはこういうものだ。30年間これをやったために、東京になにもかも集まってしまった。人が多すぎるから、東京では保育園もまともに作れない。投資先もないから作っては壊し作っては壊しの繰り返し。

金が余ってしょうがないからオリンピックを誘致してこのザマである。積み立ててきた金はすっからかんだ。

人と企業を地方に分散しないと日本が窒息死する。1票の格差は、地方疲弊のシグナルである。1票の価値が高くなった場所は過疎が進んでいるから、公共事業ではなく法人税を下げて企業を誘致するのだ。日本企業はバカだから、外国企業でも構わん。地方に働く場所を作れ。

 

追記

 

ひとつ基本的なことを追記しておく。それは地方と都市部の経済の成り立ちの根本的な違いについての覚書である。

 

都市部というのは、人間を効率よく集積することで利益を上げる。利益を生むのは人間なので、必要な数の人間を上手く集め配置し、一人当たりの生産性を高めることで利益の最大化を目指す。

 

一方で地方、特に農村部、田園地帯というのはこの逆になる。田園地帯で利益を生むのは土地なので、できるだけ広い土地を少ない人間で管理しつつ収益の最大化を目指すことで、人間一人当たりの生産性が高まる。

 

田園地帯を有する地方というのは、より少ない人数で回す方が効率的になるのだ。

 

このことをもってしても、「1票の格差」なるものがいかにバカげた議論かわかるであろう。利益を最大化する理屈がそもそも真逆な地域ふたつを並べて、人間の数で等しく国会議員を選ぶなどという発想はまったくのナンセンスなのだ。

 

「1票の格差」というのは、共産・社会主義者たちが、地方での自民党の強さを妬み、地方の票を削って都市部を増やせば自分たちの議席が増えるはずだと醜い計算をしたことが根本原因である。彼ら左翼の要求にマスコミが応え、結果として地方は疲弊し、都市部への人口供給が止まってしまった。

 

失われた30年の原因は、こうした当たり前のことすら理解できない左翼とマスコミが生み出したものなのだ。

 

 

 

 

 

庵野秀明、鶴巻和哉、中山勝一、前田真宏監督による日本のアニメ映画。

シン・エヴァンゲリオン劇場版 poster

<あらすじ>

碇シンジは、鈴原トウジが運営する集落に連れてこられた。そこはニアサードインパクトを生き延びた人々が暮らす場所だった。しばらくリハビリをしていた彼だったが、結局はAAAヴンダーに戻ることになった。

 

そしてゲンドウとの最後の戦いを終えると、日常に戻っていった。

<雑感>

エヴァンゲリオンは「母性の喪失」が語られた時代に最初のテレビ放送があり、男の子と女の子が出会い、ふたりきりになるも結局は結ばれずに終わった。これは当然といえば当然で、初恋のは実らないものなのだ。

 

アスカにツンケンされながらも結局は好かれていたシンジだったのに、母性を求めていた彼は出会った少女を拒絶した。彼があまりに子供であったからだ。

 

母の幻影を追い求める孤独な少年が、出会った少女と結ばれなかった話としてあれはあれで分かりやすい終わり方であったが、どういう理由かはわからないが新規に劇場版を作ることになった。これがそのシリーズの完結編になる。

 

孤独な少年といえば聞こえはいいが、実際はろくでもないことをしでかしたオタクのメタファーであるシンジ君は、母性が喪失してしまったことの時代的な背景から離れ、昭和的父性の象徴とも切り離され、オタクのメタファーであることも辞め、ついに日常に戻っていく。

 

カップリングが好きな人は、眼鏡の新キャラとくっついて納得いかないかもしれないが、初恋というのは実らないものなのだ。そしてそれほど気にかけてもいなかった女の子と結ばれ、何となく幸せを感じ、母親の愛から独立していく。それが壮大に描かれただけなのだ。

 

これはこれで良いラストであったかもしれないが、個人的には母と切り離され、女の子と取り残されたシンジがその状況を受け入れないテレビ版のラストが気に入っていたので、わざわざ日常に戻す必要があったのかと疑問になった。だが、オタクのメタファーがオタクのまま病んでいくのでは忍びない気もしたのだろう。

 

テレビ放送があった90年代、自分はもうアニメを見ていなかったのでこの作品のことも噂でしか知らなかったが、作り手とほぼ同じ時代を生きているのでやりたいことはわかる。ゲンドウなども昭和の父親像を知らないとそのキャラがどんなものなのか理解しづらい。令和まで引っ張ってしまったせいで、すべてのテーマがぼやけてしまった。

 

☆5.0。高評価にはしてあるが、やる気がないのか、それほどいい演出じゃないし、盛り上がりもない。

 

 

 

 

 

 

総監督:庵野秀明。監督:摩砂雪、鶴巻和哉、前田真宏。制作:カラー。

エヴァンゲリオン新劇場版:Q 碇シンジと渚カヲル

<あらすじ>

ニアサードインパクトから14年後。葛城ミサト以下旧NERV職員らは、反NERV組織ヴィレを結成、軌道衛星上にあった初号機を奪還した。シンジの身柄は彼女らが押さえていたが、腫物のように扱われることに耐えられないシンジは、救助にやってきた零号機に似た機体から綾波レイの声が聞こえたことでNERVに戻っていった。

ところが救出にやってきたレイは新しいクローンであった。シンジが知るレイはいまも初号機の中にいるという。カヲルと一緒に第13号機に乗り込んだシンジは、セントラルドグマ最深部でリリスに刺さる槍を抜いてしまう。第13号機は覚醒。フォースインパクトが始まった。

これを何とか阻止したヴィレのアスカは、放心状態のシンジを連れていった。その後ろをレイがついていく。

<雑感>

人類補完計画だのゼーレだの死海文書だのと、ムー的文言が散見されるがそんなものは何の意味もないことなので無視。カヲルくんの科白も意味なし。使徒がどうのこうのも関係なし。そもそも興味のない部分ばかりクローズアップされていたから初見で退屈だったんだな。

第1の使徒であるカヲル君が第13の使徒に堕天させられたとかそういうことも置いといて、14年経って手遅れになった草食系男子シンジくんが、しつこく生き返った式波・アスカ・ラングレーに手を引かれていくところだけ意味のあるシーンだった。

テレビ版でも旧劇場版でも失敗したアスカとシンジのカップリングに、最後の希望を託せる内容だったから、一応終わらせるつもりもあるのだろう。

続けて観ると、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」で、母親と知らないまま命を張って綾波レイを助け、文字通り一皮剥けたシンジくんを、親に甘える立場には置かずに突き放し、孤独にしながらもホモには寄せず、何をやっても上手くいかないダメ人間にまで転落した彼を、仕方なくアスカが支えるという流れになっている。それ以外の部分は全部装飾。

装飾部分の考察が多すぎるのが作品の難点。オレがエヴァファンとまるで話が噛み合わないのは、観ているところが全然違うから。「風の谷のナウシカ」が母性の喪失をテーマにしていて、宮崎駿の周辺にいる人たちが同じテーマで作品を作ったということを知らないと、たぶん人類補完計画とかそういう単語に惑わされちゃうのだろう。最初から何の意味もなかったことが証明されたのが「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」だったな。

最終作に期待するのはもちろんシンジとアスカのことで、どうにかしてこのふたりを引っ付けなければ終わらないのだが、「頑張ったーけれど、ダーメだったよ~」状態のシンジにいかに花を持たせてくるのか、それとも突き放しっぱなしなのか、気になるのはそこだな。

綾波タイプの初期ロットらしい綾波レイもふたりについてきており、そこが旧劇場版と違うところ。旧劇場版はせっかく最後にふたりっきりにしたのに、シンジが首を絞めたからな。でも、確かにあの状態ではシンジは何の自信も持っていないから、アスカに言い寄れる状態ではなかった。アスカも気を失っていたし。

☆3.5。新劇場版は、アスカがシンジを面倒見るような形になっているし、今度こそ何をやっても上手くいかないシンジと引っ付いて欲しいものだ。

 

 

 

 

 

 

総監督:庵野秀明、監督:摩砂雪、鶴巻和哉、制作:カラー。

エヴァンゲリオン新劇場版:破 ポスター

<あらすじ>

母の墓参りの帰り、第7使徒を目撃して焦るシンジとミサト。そこに突如現れたエヴァンゲリオン弐号機が難なく撃破してしまった。搭乗者の式波・アスカ・ラングレーはミサトの家に同居してシンジとともに暮らすようになった。

ハッキリしないシンジの性格にイライラが募るばかりのアスカだったが、第8使徒殲滅の活躍にシンジのことを徐々に認めていくようになった。

レイが企画したゲンドウとシンジを招いた食事会のことを聞いたアスカは、NERVの北米第2支部から届いた参号機のテストパイロットに志願した。ところが使徒に汚染されていた参号機はアスカの精神を汚染していった。アスカの安否を気にして初号機への搭乗を拒否したシンジに代わり、ゲンドウはダミープラグの使用を決断。ダミープラグの初号機は参号機を徹底的に破壊してしまった。

一命をとりとめたアスカだったが、精神汚染は深刻でサンプルとして隔離されてしまった。怒ったシンジは初号機でNERV本部を半壊させ、パイロットを辞めてしまう。そこに第10使徒が出現してマリとレイが返り討ちに遭い、さらにレイが使徒に飲み込まれてしまった。

シンジはNERV本部に戻って初号機で出撃、レイの姿になった使徒からレイを救い出して何かよくわからないものになる。サードインパクトが起こりかけたのを救ったのはエヴァMark.06だった。

<雑感>

TVシリーズ本編のころ、「母性の喪失」のようなテーマでアニメを作るのは流行っていて、「風の谷のナウシカ」とか「天使のたまご」などを経てこの作品も作られたのだが、碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーのカップリングに失敗して、破綻。劇場版でやり直すも、やはり破綻。式波・アスカ・ラングレーとして再登場させてやり直しているところだ。

この新劇場版2作目「破」では、碇シンジくんが母性を守護する男性として覚醒するところまで進み、もう誰でもいいからカップリングを成功させてくれと願っていたところに公開されたのが「Q」だった。話はまったく進まなかった。というより終わらせる気がない。

母性が喪失し、肉欲と金銭欲の権化と化した女という生物を、草食系男子がどうすりゃいいのか答えがないまま作っているのだが、草食系だから押し倒さないし、母親を奪われそうになって男性として覚醒したもののそのまま冬眠状態となって起きるなり「お前は何もスンナ」みたいに言われていたところは笑った。

たぶん作り始めたころは碇シンジでもなんとかなると思ったのだろうが、物語世界でも現実世界でも草食系はオナニーするばかりで何もせず、歳ばかり取って生きている意味もない人間ばかりとなったから、カップリングして救ってやる意味がなくなった。テーマ自体が喪失してしまっている。

そもそも「母性の喪失」というテーマ設定が間違っていて、そんなおためごかしで誤魔化さず「フェミニストを野放しにして、恋愛至上主義などやっていると、少子化が進んで社会が崩壊するぞ」とちゃんと言えばよかったのだ。なにが「母性の喪失」なんだか。

いまはさらにゲームの影響で男も女も底辺は現実すら捨てようとしている。そんな人間を救う意味なんてない。救ってやるべき人間は死んだのだ。

社会は次世代の子供を救うために福祉機能を持とうとしただけなのだから、個の幸せを追求した挙句にゲーム世界へ逃避するようになった人間には福祉なんて必要ない。社会はそこまで来てしまっている。何もかもが手遅れになってしまった。

 

新劇場版は、初期テーマとは逆に、母性を喪失させるために作られたようなものだ。何の意味も残せなかった。