駿河の今川氏、美濃の斎藤氏、甲斐の武田氏を破竹の勢いで攻略し、天下統一も目前かと思われた1582年(天正10年)、「本能寺の変」によって、志半ばで散った織田信長。戦国時代きっての名将だが、「信長公記」によると、若い頃はうつけと呼ばれ、流行りの茶筅髷(ちゃせんまげ)に萌黄色(もえぎいろ)の紐をまき付けて、袖を抜いて着た浴衣に半袴、縄を巻いた長い柄(つか)の日本刀、大・小をさして、腰には火打ち袋や瓢箪を7つ8つぶら下げて町を練り歩いていたという。そんな軽薄なうつけ者も、見ようによっては好奇心旺盛なパイオニア。フランシスコ・ザビエルが来日してキリスト教の布教活動を始めると、信長はこれを庇護し、南蛮文化も柔軟に取り入れていった。
 

黒人の家臣を持ったはじめての戦国武将

織田信長

織田信長

信長は、1581年(天正9年)2月にイタリア人の宣教師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが奴隷として連れてきた黒人をたいそう気に入って側近にした。

当時、すでに宣教師とともに複数の黒人が来日していたようだが、家臣として召し抱えた戦国武将は信長が最初だろう。

初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っていると疑い、体を洗わせたところ、さらに黒光りして驚いたという。

信長と弥助

弥助

信長はその黒人に「弥助」(やすけ)という名前を与えた。

弥助はモザンビーク出身で、モザンビークには「ヤスフェ」という名前が多い。このことから、もともとの名前がヤスフェで、それを信長が日本風にアレンジしたのではないかと考えられる。

「家忠日記」や信長公記によると、弥助の身長は六尺二分(約182.4cm)で、十人力の剛力だった。信長は兵力としても期待したようで、甲州征伐にも従軍させている。

ルイス・フロイスがイエズス会に送った年報には、「信長は弥助を武士として取り立てた」とあり、いずれは領地を与えて城主にするつもりだったようだ。

奴隷だった弥助にとって、人として、武士として扱ってくれた信長は命の恩人にも等しい存在だったに違いない。あるいは信長も、天涯孤独な弥助ならば、自分を裏切ることはないと思ったのかもしれない。ほんの1年足らずの間に、信長と弥助の間には深い絆が生まれたようだ。

「本能寺の変」での弥助

本能寺の変

本能寺の変

しかし出会った翌年の6月、信長は本能寺で明智光秀に討たれ、弥助が城主になることは叶わなかった。

本能寺の変当日は弥助も本能寺に宿泊していた。信長が自害すると、弥助は信長の子、織田信忠のいる二条新御所に駆け付け、信忠を守るために長時間戦った末に投降したという。

明智光秀は「この黒人は動物も同じ。日本人でもないし殺すまでもない。伴天連どもに返しておけ」と弥助を南蛮寺に送還。その後の弥助の足取りは分かっていない。

ルイス・フロイスの「日本史」によると、1584年(天正12年)に長崎で起きた「沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)」で活躍した黒人がいたということから、これが弥助だったのではとも考えられている。

地球が丸いことを理解したはじめての日本人

イエズス会の宣教師が信長に献上した品物の中に地球儀があった。信長は、地球が球体であることを説明されると、「理に適っている」とすぐに理解したという。

当時の日本人は、地面は方形だと考えていた。江戸時代に入ってさえ、朱子学者の林羅山が「万物を観るに、皆上下あり。上下なしと言うが如きは、これ理を知らざるなり」と、地球球体説を主張するイエズス会のキリシタンを論破したというから、信長は非常に柔軟で理解力があったと言えるだろう。

織田信長がはじめて食べた? 南蛮食品

宣教師は様々な南蛮渡来の食品を信長に献上した。

厳密に考えれば、南蛮貿易の拠点となる港があった九州の諸大名の方が、先に食したのではないかとも思えるが、歴史はロマン。日本人で初めて信長が最初に食したと言われている物を紹介しよう。

バナナと信長

1569年(永禄12年)にルイス・フロイスが信長に初めて謁見した際、バナナを献上したと言われている。食したかどうかの記録はない。

金平糖(コンペイトウ)と信長

金平糖も、同じくルイス・フロイスによって献上された。透明なフラスコに入った美しい砂糖菓子を見て、信長はたいそう喜んだという。

宣教師達はカステラや有平糖(ありへいとう)、ボーロなども日本に持ち込んだ。これら南蛮菓子の甘い誘惑は、布教活動の戦略のひとつだったようだ。

ワインと信長

宣教師が信長にワインを献上したことを記した文献も無ければ、信長がワインを飲んだことを記した文献もないが、日本人で最初にワインを飲んだのは信長ではないかと言われている。

ワインはキリストの血液。宣教師達は当然日本に持ち込んだはずだし、新しい物好きの信長が飲まないわけがないという理屈だ。

1588年(天正16年)に豊臣秀吉がワインを飲んだという記録は残っている。赤ワインはポルトガル語で「ヴィーニョ・ティント」と言い、当時、日本では「珍陀酒(ちんたしゅ)」と呼ばれていた。