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傘傘傘傘傘傘

 

「君に笑って欲しいから」 

 〜晴れの前の日〜

小説の<目次>は こちら

 

傘傘傘傘傘傘

 

梅雨の晴れ間の湿り気を含んだ風に、新鮮な緑の匂いが混じっている。


大学内にある図書館、整然と蔵書が並ぶ本棚の群、その先にある窓際のテーブル席で葉は原稿用紙を前に漫画のコマ割りを考えていた。

「ここはもう少しコマを大きくして ・・・あーでも、そうしたら次のページが ・・・・・・」

他人には聞こえないように小さな声でつぶやく。


何度も何度もやり直しながらそのたびに焦燥の溜息が漏れる。


頭の中にある映像を一つ一つ構図として置き換えなければならない「ネーム」は苦手だ。


あてどなく考えることに疲れ、ふと手を止めた時、心に浮かぶのはいつも「あの人」の顔だ。



それは世界中に存在する顔の中で一番好きな造形。


見つめられると吸い込まれそうになる黒い瞳、

意志の強さを表すかのような真っ直ぐに通った鼻筋、

微笑むと柔らかく弧を描く薄紅色の唇。


間近で見れば見るほど、心の全部を持っていかれそうになる。


けれどあれほど近くにいた「あの人」は、今はこの広いキャンパスのどこにもいない。


寂しげに目を伏せたその時、

「葉・・・・・・」

聞き覚えのある声が響いた気がした。


でも、それはきっと幻聴だ。


だってあの人は、一つ年上の瀬ケ崎瑞貴はこの春に卒業してしまったのだから。


だが・・・・・・。

「葉!」

今度ははっきりと名を呼ばれ顔を上げると、そこに瀬ケ崎が立っていた。

「ど、どうも・・・・・・」

直接顔を見るのは久しぶりだ。


嬉しいのに、心臓が飛び出るほど嬉しいのに、言葉が出てこない。



瀬ケ崎は大学を卒業し気象情報会社に就職したと聞いている。


以来、大学の構内で顔を合わせることはなくなった。


それだけでなくこの二か月、連絡すらなかった。


しかし、瀬ケ崎は以前のようにテーブルをはさんで葉の正面に腰を下ろすと、葉の手元をのぞき込んだ。


そして不思議そうに問いかける。

「何、描いてんだよ?」

以前スケッチブックで見た写実的な人物画や静物画とは違う。


原稿用紙に大小の四角形が配置され、そこに人物の形らしきものが大まかに描かれている。

「これは、漫画のネームです。ネット配信の出版社に単発でもらった仕事で・・・・・・」


「仕事? へえ、すげえじゃん」

瀬ケ崎が柔らかく微笑む。

 

けれど葉はその視線を避けるように目を伏せた。

「でも、もうやめようかなって・・・・・・」


「それってお前、漫画のプロってこと? なんでやめんの?」


「売れてなくて、食べて・・・いけないので就活しないと・・・・・・」


「でも本当は続けたいんだろ?」


―― 続けたい。


そう、出来ることなら一生の仕事にしたい。


だって漫画を描くことが何よりも好きなのだから。


心を見透かしたようなその言葉に、葉は小さくうなずいた。

「・・・・・・はい」

そう返事をしたものの、プロの漫画家としてやっていく自信なんてこれっぽっちもない。


とにかく売れなければ、売れない漫画をいくら描いてもそれはただの「趣味」だ。


そして現実は・・・・・・。



大学4年生の6月、同級生は授業をそっちのけにして土曜日の今日ですら就活に走り回っている。


3年生から準備をしていた中には、そろそろ「内定」の話が出ている者もいる。


なのに自分は一人だけ立ち止まり、いったい何をしているのだろう。


うつむいて黙り込んでしまった葉に、瀬ケ崎は右手で頬杖ほおづえを突き、穏やかに言葉を掛けた。

「じゃあ・・・・・・」

それは葉が予想もしない申し出だった。

「衣食住の金は保証してやるから、俺んとこに来い」

その言葉の意味がすぐには呑み込めない。


戸惑いながら顔を上げた葉に、瀬ケ崎は口の端を上げると悪戯っぽく微笑んだ。

「その代わり・・・・・・」

そう、もちろん交換条件はある。


葉が初めて部屋に来たあの日から、ずっと思っていた。


―― 葉が欲しい。


その心も身体も、何もかも全てを自分だけのものにしたい。


手元に置いて他の誰の目にも触れさせたくない。


そして今の自分は気象予報士の資格を取り、そこそこ高給取りになる予定だ。

「俺の言うこと、全部聞け」

どう考えても理不尽な命令だ。


だが葉には、差し出されたその手を拒むことはできなかった。


漫画家としての道を諦めきれない。


あと少し、もう少しだけ夢を追いかけたかった。


―――――――――――――――


瀬ケ崎が住んでいたのは学生時代よりも広い3LDKのマンションだ。


全体的に落ち着いたトーンでまとめられ、広いキッチンも使いやすそうだ。


家事は得意ではないが、瀬ケ崎に気に入ってもらえるよう今はここで頑張るしかない。


葉は心の中で強く拳を握り締めた。

「お前の部屋はここ」

ドアを開けると、室内はベッドやライティングデスクをはじめ、生活に必要なものがほとんど揃えられていた。


そして一番目を引いたのが黒いディスプレイだ。

「すごい・・・これって・・・・・・」

葉は目を輝かせると感嘆の声を上げた。


それはクリエイター向けのCPUを搭載した上位機種のパソコンで、いつか漫画家として食べていけるようになったら買おうと思っていたものだ。

「ああ、どういうのがいいか、さっぱりわかんなかったから、とりあえず『漫画描けるやつ』って言って、量販店で買ってきた」


「でも・・・・・・」

大したことはないと言いたげに瀬ケ崎は言葉を返すが、安く見積もっても30万はするだろう。


こんな高価のものを用意してくれるとは思いもしなかった。

「なんだよ、これじゃ不服か?」


「い、いえ、そんなことない・・・です」

―― 不服なんてとんでもない、
       自分が今まで使っていたのとは
       比較にならないほどハイスペックです。


そう言いたいのに、うまく言葉が出てこない。


だからせめて、

―― ありがとうございます。

素直に感謝の気持ちを伝えようと思っても、どう言えばいいのかわからない。


いつも肝心な時に言葉がどこかへ消え去ってしまう。


黙ったまま立ち尽くしている葉に、瀬ケ崎が背後から吐き捨てるように言った。

「荷物整理したら、晩飯作れ」

その命令口調に現実を思い知らされる。


ああ、そうだった。


自分は契約したのだ、瀬ケ崎の言うことを何でも聞くと。


そして当面の役目はたぶん<家政夫>だ。


―――――――――――――――


夕食後、風呂上がりにビールを飲みに来た瀬ケ崎が、食事の後片付けをしている葉を背後から抱きしめた。


そして・・・・・・。

「片づけ終わったら、お前の部屋に行く」


「え?」

―― 何これ?
       何してんの?


突然すぎる状況に、理由わけがわからず怪訝けげんな瞳で葉が振り返ると、瀬ケ崎は平然とした顔つきで続けた。

「お前のこと、抱くから」

それはまるで何か事務的な伝言でもあるかのように、あまりにもあっさりとストレートにぶつけられた言葉。

「はあ?」

―― なんで?
       だって俺たち、
       恋人でも何でもないのに。


露骨に戸惑いの表情を見せると、瀬ケ崎はぶっきらぼうな口調で確かめるように言い放った。

「言っただろうが、『俺の言うこと全部聞け』って」

―― 確かにあんたはそう言ったけど、
       俺も承諾したけど
       でも、だからってそんなことまで・・・・・・。


返答に困りうつむく葉の顔を上げさせると、避ける間もなく左手で頭を押さえてキスをする。

「ん・・・んん・・・・・・」

唇を強く押し当てられて息ができない。


何とか逃れようと体をよじって抵抗しても、今度は瀬ケ崎の右腕がそれを許さない。


しばらくして少しだけ身体を離すと、目を閉じて放心したような葉に瀬ケ崎は不敵に微笑んだ。

「ばぁーか、俺から逃げられると思うなよ」

うっすらと目を開けた葉はまぶたを瞬かせ、瀬ケ崎の顔を見つめた。


恐怖よりも嫌悪よりも、初めてゼロ距離で見るその顔の美しさにただ見惚れてしまった。


そして、自分にとってファーストキスの相手が瀬ケ崎だったことが、意外にも嫌ではない。


ぼんやりと力なく身を預けている葉をもう一度柔らかく抱きしめると、瀬ケ崎は耳元にささやいた。

「怖がらなくていい、優しくするから」

無理強いして泣かせるつもりはない。


ただ葉を自分のものにしたいのだ。


この手から外の世界へ飛び立っていかないように。

瀬ケ崎の言葉に葉は小さくうなずいた。



明かりを消した部屋の中に、激しく窓を打つ雨音が響く。


言葉の通り、ベッドの中で瀬ケ崎は別人のように優しかった。


その唇も指先も甘くて優しくて、身体の隅々まで蕩けそうになる。


初めて与えられる震えるような快感に、葉はただ無抵抗だった。

やがて、突き上げるような熱い高まりの後、筋肉質の汗ばんだ裸体を起こし窓辺に持たれながら瀬ケ崎は言った。

「これから、晴れの前にするから、準備しとけよ」

この一言がこれから先、葉の頭の中に深く刷り込まれ、「晴れ」というワードを耳にするたびに全身を火照ほてらせることになるのだ。


そしてそこに込められた瀬ケ崎の不器用な思いやりに、葉はまだ気づいていなかった。





💖おしまい💖