うちの母が他の家庭の母と違うと感じるようになったのは保育園のとき。
きっかけとかはなくて、確信もないし、違和感を具体的に言語化もできない。
なぜか母なのに母だと思えなくて、もっと言えばその存在に、何の思い入れもなく、ただ不快な物体として認識していた。

他の子どもに、どうして母という存在がいるのかわからなかった。
あたしにも一応母が充てがわれていたが、この物体をどう扱えばいいかわからなかった。

が、他の大人と同じように、必要な時に必要な反応、表情、声を造って接すれば痛くて怖いことはされないのは学んだが、不器用な自分が上手く出来ることは少なくて、随分と不快な思いをさせてしまって申し訳なかった。
で、もちろん罪は償った。

自分が不快にさせて、悪いことをしているから痛くて怖いことをされるのに、どうして悲しいとか思っていたのかは理解できていない。

他の家の人間が羨ましかった。
何が羨ましいのかはっきりは分からないが、同年代の人間が母の話をする時、不快感や恐怖がないような話し方をする。むしろ、それが大切な物のような話し方をする。
母という存在に安心感があったのかもしれない。
それが羨ましく感じた。

それでも子どもの頃は母を求めた。
家にいる母という名の物体ではなくて、本物の母が欲しかった。

小学校4年生ぐらいに図書館でトリイ・ヘイデン氏の本を見つけた。
読みまくった。大人になっても読む。
繰り返し読む。
あたしの母はきっとトリイなんだって思って。
その本に出てくる子ども達の人生と自分の人生が妙に重なった。
欲しかった言葉や反応はトリイがしてくれた。
守ってくれていると感じるようになった。

これもひとつの「母」のかたちなんじゃないかと思う。