混沌とカオス
混沌は、あくまでも混沌でしかない。
そこから何かが生まれるとしても、
混沌=所詮、ただの混沌である。
「映画祭自体は作品ではない。」
「プロデュースする側として、もっと冷静になった方がいい。」
「やりたい事はわかるが、今は実績を作る時だ。」
「単なるオナニーの押し売りだ。」
「観客を呼べなければ意味がないし、映画祭として成り立ってゆかない。」
~という様な“ちば映画祭”に対して廻りの声があります。
大切にしている人達からの声であるが故に、自分自身真剣に受け止めて答えを出そうとするが、
正直、ワカラナイ・・・
う~ん、そいじゃ、原点に立ち返ろうってんで、考えをまとめてみました。
ちば映画祭は、独自の初期衝動を繰り返し、
乱立する混沌にドップリと依存した希薄なモノを不要とする意義を共有する為にある。
ちば映画祭は自発的な表現手段である。
だからして右へ倣えする必要はない。
なんか説教臭いのは嫌いだし、うまく言い表せる言葉はないものかと、
ない頭で浮かんだのが、「東京大虐殺」なる言葉。
様々な情報が溢れ
誰しもが安直に上っ面の情報だけを手に入れ、あまりにも容易に大切なコトを語りやがる。
絶対数ってヤツが自分が必要としているモノであるのか?
イヤ、違う。
絶対に違う。
本当に意義のあるモノを見えにくくさせているのは何なのだろうか?
自分自身もそうなのではなかろうか?
イヤ、違う。
絶対にそんなモノにはなりたくない。
その為の表現手段であるのだ。
腐敗した偽モノに対しては、不要だと言わなければならない。
必要ないと示さなければならない。
コレハタタカイデアル
もちろんテメエ自身との
自分自身に対して少なからず影響を与え続けてくれる
すべての本当に意義のあるモノに対しての自分なりの最大限の答えを出す。
ちば映画祭は、自分にとっての表現手段であります。